A DAY IN MY LIFE

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2003/07/31/Thu.
▲曇り。暑い。今日も赤ん坊が出てくる気配なし。
▲写真家の中藤毅彦さんを取材、撮影。秋に出る極上カメラ倶楽部『ぼくたちのM型ライカ』(双葉社スーパームック)のため。中藤さんには「季刊クラシックカメラ」時代から何度か原稿をお願いしてきた。今日は作品をお借りして、ぼくが話を聞くというかたち。中藤さんは東欧、キューバなど旧&現社会主義政権の国々を取材、作品展、写真集で発表している。高感度フィルム(おもにフジプレスト1600)を使用し、時には増感して粒子の荒れた映像を作り出す。西側社会(という言葉も、ほとんど死語だが)の反世界ともいえる社会主義的風景を背景に光と影のドラマを印画紙に焼き付ける。自身と、そのほかの写真家の作品発表の場としてギャラリー・ニエプスを主宰している。
▲懐かしい友人からメールをもらったり、BBSに書き込んでもらったり。
▲映画『にあんちゃん』(1959年日活・今村昌平監督)をビデオで。朝鮮特需(朝鮮戦争勃発が昭和25年。特需は27年まで続く)から神武景気(昭和29年末〜33年)までの谷間にあたる昭和28〜9年は、特需によって拡大した企業がその反動で大リストラを断行した不況時代である。『にあんちゃん』の舞台になった佐賀県大鶴炭鉱もそうした労働現場の一つで、原作は、炭鉱の朝鮮人部落に住んでいた小学生の女の子が書いた手記である。戦後、綴り方運動ってのがあって、小中学生を始めとして生活の実状を文章にしたものがベストセラーになったり、映画化されたりしている。原作についてはサイトにあんちゃんの里あり。
▲小学生の末子(前田暁子)には、長兄の喜一(長門裕之)、良子(松尾嘉代)、にあんちゃんと呼んでいる次兄の高一(沖村武・子役)の3人の兄弟がいる。両親はすでに亡く、喜一は炭鉱の臨時雇い。本採用を夢見るが、不況のあおりでクビになってしまう。喜一は長崎の工場へ、良子は唐津の肉屋に住み込みで働きに行くことになり、末子と高一はつてを頼って預かってくれる家を転々とする……といった内容。どん底の貧乏を描いて、いま見ると、ほとんど外国映画。イタリアのネオリアリズモか、ごく最近までの中国映画、はたまたイラン映画(『サイクリスト』の頃の)といった印象。貧乏で、可哀想な話なのだが、どこか明るいユーモアがある。青い空に白い雲がぽっかりと浮かんでいるような。
▲『にあんちゃん』はこの年の前年に『盗まれた欲情』で監督デビューを果たした今村昌平の4本目の監督作品であり、大ヒットを飛ばした出世作である。悲惨な状況の中でも、たくましさとしたたかさを失わず、パワフルに生きている人間たちの人情を描いているあたりは、先日見たばかりの『カンゾー先生』まで変わらない。貧しき生活の中に生きる人々を美化するのではなく、強突張りのババア(北林谷栄。この時もう立派な婆さん役である)ほかの登場人物たちにホンネを蕩々と述べさせる。さらに、貧乏人たちに公衆衛生の大切さを説く親切な保健婦の先生(吉行和子)の善意溢れる正論の虚しさまで描くあたりは、今村昌平の複眼的なまなざしの真骨頂だろう。老若男女が楽しめる明朗な映画でありながら、その底にある視線は鋭い。
▲しかし、この映画を見ていると、自分が今いる国と同じ国の映画とはとても思えない。日本語をしゃべる外国映画というか。宮沢章夫が『牛乳の作法』の中で、「過去の日本映画を好きだというタイプがいる」と喝破していたが、昔の日本映画は字幕いらずの外国映画という趣がある。何が違い、どうしてそんなに隔たりができたのか。興味深いところだ。


2003/07/30/Wed.
▲雨のち曇り。今日も赤ん坊が出てくる気配なし。
▲牛尾篤『憧れのウィーン便り』(トラベルジャーナル)読了。ちょっとだけ読んであとで読むつもりが一気に。ウィーンの国立応用美術大学で銅版画を学んだ著者が、ウィーンの魅力をエッセーと銅版画とで紹介する。いわゆる海外エッセーものは当たりはずれが大きいけど、これは当たり! 当然、アートの話からスタートすると思ったら、ザッハ・トルテの本家と分家の食べ比べからはじまり、カフェの内装、市場の楽しみ方など肩の凝らない話題を中心にウィーンを紹介する。もちろん、美術館やオペラ鑑賞、かの地の黄金時代を築いたハプスブルグ家の話なども出てくるが、すべて牛尾流のおっとりしたユーモアがまぶされていて楽しめる。
▲ウィーンには一度だけ、それもわずか数日間だけ滞在したことがあるが、とてもきれいな街だという印象がある。ロシアや東欧を回った足で寄ったせいもあるだろうが、子供の頃にイメージしていたおとぎ話の中の「ヨーロッパ」があるというか。カフェも、日本にあるヨーロピアンな喫茶店を思わせる内装(当然、あっちのほうが断然素敵だけど)。日本にはウィーン風のパチモンがたくさんあるんだなあ、とはかの地で気づかされた。『憧れのウィーン便り』にはウィーンのカフェ、ケーキなどのことが実に魅力的に描かれてあって、もう一度ウィーンに行ってみたくなった。


2003/07/29/Tue.
▲曇りがち。今日も赤ん坊が出てくる気配なし。
▲茗荷谷→淡路町。オリンパスプラザで分解清掃に出していたデジタルカメラ(キャメディアC5050)をピックアップ。
▲銀座。写真弘社で三輪薫さんとバッタリ会う。三輪さん監修の写真展(写真教室の生徒さんたちの作品展。みんな、上手い)の最終日だった。立ち話。
▲吉野信さんと打ち合わせ吉野さんから原稿をいただく。お借りしていた写真返却も。
▲ライカギャラリーで荒木経惟写真展「LOVE BY LEICA」。おそろしく素っ気ないギャラリー。せっかくアラーキーというハデな写真家を招いているのに、演出ゼロ。もったいない。展示されている写真はモノクロのみ。すべてライカで撮影されているはずだ。このギャラリーではライカで撮影された作品以外展示されない、と人づてに聞いたことがあるからだ。しかし、そんな簡単なことすら会場では説明されていない。というか、写真家のプロフィールもメッセージもない。ないないづくしの写真展。
▲投げ出された、無造作な感じが、荒木さんの写真からも漂ってきていて、そのダルな感じが妙にライカっぽいと感じた。もちろん、それは皮肉な見方で、世のライカファンからはブーイングが起きそうな投げやりな展示だ。ギャラリー側のやる気のなさが反映されたんだろう。ではなぜ、荒木さん? 不思議な写真展。
▲新宿経由で高田馬場。昨日の取材内容をテープ起こし。帰宅すると彩さん(やや仮名)が料理を作ってくれていた。夫婦って何? みたいな話など。拙著『カウンセラーになろう!』を進呈。また遊びに来て下さい。
▲大沢在昌『天使の爪』( 小学館)の書評を書いて就寝。


2003/07/28/Mon.
▲晴れ。そろそろ梅雨明けか?
▲妊娠中のカミさんの「予定日」は今日。何も起こらず。まあ、考えてもしようがない。出てくる時は出てくるんじゃないかと。ハンニバルさんは予定日より2日遅れで出産されたそうで。おめでとうございます。
▲「一枚の繪」誌の取材で蒲田へ。取材の帰りに食堂に寄ったらメンチコロッケ定食420円だった。工学院通り。
▲西荻窪で散髪。古本屋を冷やかして帰る。
▲宮沢章夫『牛乳の作法』読了。久しぶりに宮沢章夫を読んだ。面白くて面白くて。宮沢章夫は劇作家、演出家で作家。言葉と身体に対する明晰さにいつも唸らされる。例によっていろいろなメディアに掲載された雑文集といった趣だが、写真(鬼海弘雄『や・ちまた』)について書いても、「だめな喫茶店」について書いても、野田秀樹や大田省吾、はたまた坪内逍遙について書いても、その面白さは変わらない。その等距離感覚ぶりが凄い。


2003/07/27/Sun.
▲晴れのち曇り。梅雨、なかなか明けないな。
▲テレビドラマ『木更津キャッツアイ』をDVDで最後まで見る。気志團が登場する第7回(宮藤官九郎演出)を見ていて、クドカン作品は「メディア」なんだと遅ればせながら気づく。近松門左衛門の「心中」ものは、事件発覚後猛スピードで書かれ、小屋に掛けられた。そのほかの文楽、歌舞伎の作品も、同じ。ようするに、芝居は当時、マスコミだった。テレビみたいなもんだろう。宮藤官九郎も同様にテレビドラマをとらえている節がある。ドラマの中に、自分が今面白いと思うもの、お茶の間に見せたら(その違和感を含めて)面白いと思うものを盛り込む。ドラマのベースには確固とした世界があり、その上に何を載せても大丈夫だぜという自信があるのだ。そのへんが、宮藤官九郎が凡百の脚本家と違うところではないか。DVD最終巻には、宮藤官九郎へのインタビューもあり。全巻通じて大した特典映像はないのだが、そのインタビューだけは面白かった。もっとも、クドカンファンには機知のことばかりなのかもしれないが。
▲映画『竜二 Forever』(2002年・細野辰興監督)をDVDで。宮藤官九郎は、実在の芸能人をその人本人として登場させるが、そのキャラクター、経歴は「作り」である。そのあたりの微妙な塩梅がまた巧い。一方、『竜二 Forever』は、本人抜きで、それほど昔でない過去に実在した人物をフィクションで描く。それがいかに困難なことか、改めて考えさせられた。
▲1993年に公開された『竜二』は、脚本・主演を務めた金子正次が映画公開直後に亡くなったこともあり、当時話題になった映画だった。アングラ劇団で活躍していた俳優、金子正次が脚本・主演し、制作現場を牽引して作った自主映画である。映画に憧れ、脚本も書いていたが映画化が実現せず、しびれを切らして自身で作った映画だ。映画公開に先立ってビデオで見直したが、10年経っても色あせない生々しい魅力のある映画だった。
▲『竜二 Forever』では、映画冒頭に「フィクションである」と大きくうたっているとおり、映画『竜二』の制作現場と、金子正次を素材にして、1本の映画に、30過ぎて遅ればせながら勝負を賭けようとする男3人の姿を描いている。高橋克典、香川照之、木下ほうか。この3人の個性の違い、映画へ参画する距離感の違いがドラマを生む。見応えがあった。
▲しかし、戸惑いも残った。金子正次と、松田優作を思わせる「大物俳優」との葛藤、同じく、主演女優とのエピソードなど、虚々実々のやりとりが、こちらの先入観もあってすんなり飲み込めない。とくに、金子正次を強く意識した高橋克典、また「大物俳優」役の高杉亘の演技が物まねスレスレなのに、そのほかの俳優はモデルにとらわれずに演じていたりと、ちぐはぐな印象を受けた。もっとも、それは『竜二』を見ていて、その周辺について多少なりとも知っている観客に限ったことかもしれないが。いずれにせよ、『竜二』なくしてはこの映画も存在しなかった。ゆえに、見る側が事実に拘泥してしまうのはしょうがない。ノンフィクションとフィクションの相互乗り入れの方法論について考えさせられた。
▲映画『裸のマハ』(1999年 スペイン・フランス ビガス・ルナ監督)をDVDで。こちらも実話がらみ。ただし、1802年の話だからもっと自由だ。ゴヤが描いた2枚の絵。「着衣のマハ」と「裸のマハ」は、モデルが誰かはっきりしないこと、陰毛が公に描かれた最初の絵画だったことなど、スキャンダラスな話題をまとった名画だ。しかも、モデルとして有力視されているアルバ公爵夫人の死には疑惑があった……。そのミステリーを想像の翼を広げて解き明かした映画。スペイン王室周辺の濃密な人間関係そのものがミステリーといったあんばいで、緊張感を保ったまま最後まで飽きさせずに見せる。豪華な調度品、衣装などもさることながら、いまどきこんなところあんのかという風景が登場する。出演はペネロペ・クルスほか。ステファニア・サンドレッリ(王妃役)が出ていた。息の長い女優だ。


2003/07/26/Sat.
▲曇りのち晴れ。
▲映画『独立少年合唱団』(2000年・緒方明監督)をビデオで。両親を失って孤児になった中学生の道夫(伊藤淳史)が、山の中にある全寮制の学校(独立学院中学校)に転校してくる。少年はどもりで、そのことでクラスメイトたちからいじめに遭う。しかし、康夫(藤間宇宙)だけは彼をかばった。康夫は「ウィーン少年合唱団に入ることが夢」と語る合唱部のリーダーで、道夫も合唱部に入って歌うことになる。
▲シブい色調の画面は東欧映画のようなムードである。少年二人の合唱コンクール物語なら明るくなったかもしれないが、映画の舞台は1970年代初頭。合唱部を指導する牧師の清野先生(香川照之)は学生運動からドロップアウトして教師をやっている。そして、交番爆破事件を起こして警察から追われているかつての仲間(滝沢涼子)をかくまう。そして、ボーイソプラノの康夫少年は変声期を迎えるのだ……。日本映画の系譜にはあまりない、繊細なタッチの思春期映画。映画ファンのみならず、BL系の方にもおすすめしたい。
▲新宿まで出るのが精一杯って感じの体調。
コニカプラザギャラリーで写真展3つ。コニカプラザギャラリーは3部屋に分かれている。1つ目(ギャラリーA)は原孝治写真展「frame」。新人写真家の登竜門「コニカフォトプレミオ」の入選作家の作品。駅のホームから電車の窓の中を写した作品。固定された視点で写した写真を壁一面のみにぎっしりと規則的に並べる。インスタントラーメン食ってるねえちゃん、吊革につかまる人々、降車の際に残す座席へのするどい一瞥。デジカメを使っているのか、デジタルプリントだからなのか、シラけ気味の画面は、カメラが定点観測の装置になっていることを示している。こういう写真は大好きだ。しかし量がもの足りない。視点が機械なら、写真も大量生産されるべきだ。原孝治は1979年生まれ。
▲ギャラリーBも「コニカフォトプレミオ」入選者の作品。会田法行写真展「濃密な箱」。こちらは、「拍手喝采後楽園ホール」と副題が付けられたボクシングの写真。増感されてコントラストが高くなっているカラー写真。リングサイドギリギリからボクサーの殴り合う姿を追う。一転、客席に目を移して、女性ファンたちの目を見開いた表情も。試合後の、血を流し、腫れあがったボクサーの顔が並ぶ。以前、後楽園ホールでプロレスの試合を見たことがあるが、想像していたよりもずっと狭いことに驚いた覚えがある。この写真はホールの狭さと同時に、リングの遠さも描いている。そして、その遠いリングの中に入っていこうとする勇気を感じた。会田法行自身、プロボクサーを目指していたこともあったという。米国に留学し、ジャーナリズム学部報道写真学科を卒業し、現在は朝日新聞社スタッフカメラマン。会場にあったポートフォリオの中には「9.11」から1年経ったニューヨークの姿を撮影したモノクロ写真があった。そちらも、外国人ジャーナリストとしてよりも、かつて米国に住んでいた人間として、インサイドに入っていこうとする写真だと感じた。
▲ギャラリーCは2002年度「コニカフォト・プレミオ年度賞」受賞発表展。大賞は原田徳子(はらだ・とくこ)「母へ」。特別賞は、亀山亮(かめやま・りょう)「パレスチナ−ジニン虐殺」、永沼敦子(ながぬま・あつこ)「にせものトレイン」。「母へ」は丹念に母と故郷を撮影したモノクロ写真。「パレスチナ−ジニン虐殺」はパレスチナの側から、虐殺の現場を告発するモノクロ写真。アメリカを発信源とするマスコミが報じる「テロリスト」が生まれる場所に入り込んで撮影した迫力ある写真。「にせものトレイン」は、偶然、このコニカプラザで見ている。再び見て、やはり面白いと思った。電車の中の人々の顔、立ち振る舞いをデジカメで撮った作品。スカートからはみ出た太股を撮った写真など、バレればその場で「都迷惑条例違反」でとっ捕まりかねないが、しれっと撮っていて、いやらしさは感じない。面白いだけだ。
▲近い将来、公の場所でスナップショットが発表できなくなるかもしれない(事実、アメリカでは被写体の承諾がなければ写真を発表できない)。嫌な世の中だか、それが現実だ。社会と摩擦を起こしながら生まれてくるものが面白いのだとも思う。絶対安全な作品なんてつまらない。
▲TSUTAYAで松本さんとバッタリ会う。松本さんといっても誰もわからないと思うので実名で書くが、最近、内田吐夢にハマっているとのこと。シブい。しかし、吐夢の映画って、どの程度ビデオ化されているのか。「こないだ内田吐夢版の『人生劇場』見ましたよ」というと、ちょうど今、加藤泰版のビデオを借りて見ているとのこと。日本映画のそこらへんを今時見ている人って世間に何人いるのかな。新宿TSUTAYAにはそういう人たちが集まってるって気がする。
▲で、借りたのは『木更津キャッツアイ』(4・5・6巻)、『竜二Forever』、『裸のマハ』。
▲隣のビックカメラで買い物をして帰る。本を読む気力もなく、ゴロゴロしながら『木更津キャッツアイ』をひたすら見る。


2003/07/25/Fri.
▲曇りのち雨。
▲夜、夕べと同じ居酒屋(和来路)で飲み会。昨日と今日、入れ替えてもわからないっていうか。そういう二日間。
▲早めに散会したので帰宅して、今日借りてきた『池袋ウェストゲートパーク スープの回』を見た。面白かった。クレイジーケンバンドが登場。個人的に面白かったのは、ヒカル(加藤あい)が書いた「虎」「馬」「誠」三部作。「ブクロ、サイコー」です。


2003/07/24/Thu.
▲曇り。
▲茗荷谷。セオさんとバッタリ会う。
▲ムック企画の打ち合わせ。かなり面白い本になりそう。その後、居酒屋へ流れ痛飲。


2003/07/23/Wed.
▲曇りのち雨。
▲大沢在昌『天使の爪』( 小学館)読了。『天使の牙』( 角川文庫)のヒロイン、「神崎アスカ」シリーズ第2弾。「神崎アスカ」は腕利きの女刑事の脳を、麻薬コネクションのボスの愛人の身体に移植し誕生した、世界で初めての脳移植者という設定である。
▲アスカを手術したコワルスキー博士が、ロシアの情報機関SVRのために、再度脳移植手術を行なった。今度は男性。それも、超一流の殺し屋の脳を、特殊部隊で訓練を積んだ犯罪者に移植した。SVRはその男を日本に送り込み、チェチェン人マフィアの偽札1000万ドルを奪わせようとする。しかし、男は自分以外のたった一人の脳移植者であるアスカに関心を抱き、男の狂気が萌芽する…。チェチェンマフィア、ヤクザ、SVR、CIA、警察、麻薬取締官……複数の組織がそれぞれの論理と内部抗争を抱えながら絡み合い、複雑怪奇な地図を描く。これでもかとばかりに材料を詰め込んで、なおかつ破綻せずに最後まで物語を盛り上げる大沢在昌の腕前はさすが。設定からしてマンガチックだが、自身マンガ原作も手がけている大沢にとって、マンガだろうと小説だろうと、面白ければいい、という確信があるのだろう。小難しいことを考えずに楽しめるエンターテインメント作品。
▲テレビドラマ『木更津キャッツアイ』第1巻(1・2話収録)をDVDで。テレビ放映時には哀川翔出演の回を見てウケまくったという淡い思い出しかないのだが、今回は、襟を正して第1回から見ることにする。脚本は宮藤官九郎。監督は金子文紀ほか。野球の「表」で事件が起きて、「裏」が解決篇という構成。木更津は千葉の町の名前。キャッツアイはマンガの『キャッツアイ』。つまり、泥棒の話。したがって出だしは『オーシャンズ11』風だったりするのだが、主人公たちは元高校球児で現在は草野球仲間。プー太郎と大学生と子持ちの飲み屋(「野球狂の詩」)のマスターという構成のメンツ。彼らとその周りにいる大人たちが毎回事件を起こす(巻き込まれる)というお話である。ミソは、主人公のぶっさん(岡田准一)が癌で余命幾ばくもない(もって半年)というところ。『池袋ウェストゲートパーク』に続いて主人公は町のコミュニティーで生きる若者たち。シリアスとコミカルの線を行ったり来たりしながら、「木更津キャッツアイ」の面々の活躍を描く。


2003/07/22/Tue.
▲曇り。梅雨、なかなか明けない。
▲午後、茗荷谷。ぼくが編集した『645新世紀 中判カメラ入門』(双葉社)の見本誌をもらう。6×4.5フォーマットの中判カメラをテーマにしたムックです。本全体の企画編集、インタビュー原稿、風景写真集のブックガイドをやってます。風景写真、スナップ、ポートレートの作例多数。登場する写真家は、林明輝、赤城耕一、三輪薫、吉野信、川口邦雄、木村恵一、中里和人、大西みつぐ、丹地敏明の各氏。インタビューページに立木義浩、竹内敏信の両氏にご登場いただきました。大型書店のカメラコーナー、カメラ量販店の書籍コーナーなどでも販売しています。
▲ハービー・山口さん宅で秋に出る予定の「ライカ本」の巻頭口絵の構成。
▲「一枚の繪」編集部へ寄ってから帰宅。
▲映画『カンゾー先生』(1998年・今村昌平監督)をビデオで。
▲日記に書き忘れていたのだが、先日『今平犯科帳』(村松友視著・日本放送出版協会)を読んだ。NHKのテレビ番組制作がきっかけで書かれた今村昌平の評伝だ。村松友視と今村昌平というキャラクターには接点がないようにも感じるが、その距離感が結果的にはよかった。「鬼のイマヘイ」の異名をとる今村昌平の「人間を観察する冷酷無比な目」が描き出され、土着的でエネルギッシュな作品からだけではうかがえない、今村昌平の一面が見えた。
▲『カンゾー先生』は楽しい映画である。終戦直前の瀬戸内海の小村。国民の食生活が貧しくなるとおもに流行し始めた「肝炎」と必死に戦う医師(柄本明)の姿を描くのだが、それが型どおりではない。どんな患者にも「こりゃ、肝臓炎じゃ!」と診断を下す医師は「肝臓先生」と、ヤブ医者のように言われ、軍部からは、ブドウ糖の使用量が多すぎると横やりを入れられる。カンゾー先生は至って真面目な人柄だが、その周りには生臭坊主(唐十郎)、モルヒネ中毒の外科医(世良公則)、元「淫売」の看護婦(麻生久美子)といった食えない面々がいる。瀬戸内海の明るい海とおおらかな気風が感じられる。
▲しかし、楽しいだけで終わらないのもイマヘイ映画だ。軍人たちの横暴、捕虜への拷問。逃げ出した捕虜をかくまったカンゾー先生たちへのスパイ容疑などなど、ダークなエピソードも盛り込まれている。そして、何より、「町医者は足だ」と始終、往診のために町を走り回っていたカンゾー先生が、肝炎のウィルスを発見しようと躍起になるくだり。帝大出のカンゾー先生の心の中にあった名誉欲まで描いてみせる。「赤ひげ」の単なるヴァリエーションにはなっていない。
▲麻生久美子の初々しい魅力と共に、今村昌平の意外な若々しさをも感じさせてくれた佳品。


2003/07/21/Mon.
▲曇りのち雨、のち晴れ。祝日。
▲竹橋。国立近代美術館。お目当ては「牛腸茂雄展」。今日が最終日だった。
▲牛腸茂雄(ごちょう・しげお)は1946年生まれ。桑沢デザイン研究所でグラフィック・デザインを学んでいたときに、教師の一人だった写真家の大辻清司に薦められ、写真に専攻を変更、写真家として作品を発表し始める。時は60年代後半〜70年代。猥雑でパワフルな時代が去り、「コンポラ写真」と呼ばれる、日常に取材した作品が多く登場する。牛腸はその「コンポラ写真」の代表的な写真家の一人となる。そして、自分と他人との関係性を見つめるための機械としてカメラを手にし、世界をその手とまなざしで確かめるように写真を撮っていった。作品集『SELF & OTHERS』(未来社)は現在も新刊書店で入手可能。
▲牛腸は、大辻清司がその将来をもっとも嘱望したとも伝えられる写真家だが、3歳の時に患った胸椎カリエスのために身体的な健康に恵まれず、36歳の若さで世を去る。したがって、残された作品も決して多くはないが、何度でも見たくなる。写っているのは見知らぬ人のポートレート、スナップ写真なのだが、それが知らない人と突き放せない何か──身に覚え、のようなもの──があるのだ。
▲今回の回顧展での収穫は、カラー作品のスライド上映があったことと、インクブロットによる画集『扉をあけると』ほかマーブリングの作品を見ることができたこと。これまで『SELF & OTHERS』の世界しか知らなかったので新鮮だった。とくにカラー作品は牛腸自身と無縁の「他者」を隠し撮りしている作品だが、絞り開放で狙った被写体に大胆にフォーカスしていくスタイルに意外の感があった。
▲ついでに「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画」展も見る。ダリが日本に紹介されたのが昭和11年というのは、よく考えれば納得だけど、ちょっと不思議な感じがする。前世紀初頭のダダ、シュルレアリスムの運動と、戦前の日本がイメージとして結びつかない。この展覧会は、ダリ・ショック、ダダ、シュールショックによって、突如として描かれ始めた幻想絵画群を集めたもの。戦前のモダニズムの一端を見る思い。
▲九段下まで歩き、新宿を経由して帰宅。お堀に白鳥。
▲テレビドラマ「池袋ウェストゲートパーク」5巻と6巻。完結。ラストの大技。ちょっと感動してしまった。クドカンこと宮藤官九郎が書く脚本はシリアスとコミカルを実にスムーズに行ったり来たりする。「池袋ウェストゲートパーク」を見始めたとき、堤幸彦の演出はあまり合っていないのではないかと感じていたのだが、シリアスとコミカルは堤演出の両輪でもあるわけで、最終的にはいいコンビだったのかも。終わってしまって寂しい。あとは特番があったはずだが。


2003/07/20/Sun.
▲曇り。
▲木場。東京都現代美術館。「田中一光回顧展」。セゾングループのアートディレクション、数多くのロゴマーク、ポスターの制作、ブックデザインで著名なアートディレクターの回顧展。優れたデザイナーであることはもちろん、クリエイターたちをオルガナイズできる「ディレクター」として卓越した才能を持った人だった。会場内の展示デザインは安藤忠雄(サントリーから提供されたペットボトルを組み合わせて壁を作り、ポスターを展示している)、宣伝は永井一正、図録は勝井三雄がそれぞれデザインを手がけている。
▲あらためて作品をまとめて見て感じたのは、田中一光の「腕」の確かさだ。文字一つ、図版一つ、動かしようのない、すきのないデザイン。凡百のデザイナーには作り出せない安定感がある。万人のためのデザインというものがあるとすれば、それはまさしくこういうものではないか。会場内に展示されている田中一光の仕事机も、何の飾り気もない、素っ気ないものであることからも、その印象を強くした。8月31日(日)まで。
▲バスで門前仲町。東京商船大学の前を通って月島まで歩いた。
▲うちの近所のビデオ屋が潰れていた。ビデオを借りるアテが外れたので、手持ちのビデオの中から『ある殺し屋の鍵』を再見。『ある殺し屋』に比べれば魅力に乏しい映画だが、テンポはいい。ヒロインは佐藤友美。つかみどころのない女優だなといつも思う。


2003/07/19/Sat.
▲曇り。
▲原稿2本、仕上げてメールで送る。ファックスでサムネイルも。
▲渋谷。BUNKAMURA GALLERY版画作家3人展──爲金義勝・松島順子・牛尾篤──へ。牛尾篤さんと久しぶりにお話できた。牛尾さんの作品はどこか懐かしく、夢想的でユーモアがある。会場には牛尾さんが装画、挿絵を描いた本や雑誌が並べられ、一見さんにも親しみやすい。牛尾さんの作品は牛尾篤の世界(ギャラリー・ミューズ)でも垣間見られるが、画像が今ひとつ。実物の方が断然いいです。「版画作家3人展」は28日(月)まで。
▲外苑前shop&gallery DAZZLE。写真展「掌(たなごころ)の宇宙──築地仁 鈴木秀ヲ 金子典子──」。偶然、こちらも3人展。モノクロ写真の小さな宇宙。築地仁はヨーロッパの建築、スナップを超広角レンズで捉えたシリーズ。鈴木秀ヲは自作のオブジェ(アンティークなモノを組み合わせて独得な造形物に仕立てる)。金子典子はガラスキャリアにはさんだ水滴などに光を当て、印画紙にイメージを焼き付けるという手法で制作した作品。Penetgrame(ペネトグラム)と名付けている。築地、鈴木の作品は、これまで見てきた作品の延長線上にあるもの。金子は未知の写真家だったが、プリミティブ+可愛いという感じで、新鮮。会場には、「季刊クラシックカメラ」でお世話になった築地仁さんがいらっしゃったので、雑談など。今年中にこのギャラリーで新シリーズの個展を開く予定があるという。楽しみだ。「掌(たなごころ)の宇宙」は7月27日(日)まで。
▲外苑前リトルモア・ギャラリー。池田爆発郎作品展「ピンメン」 。ピンメン、初めて知った。宇宙から地球に働くためにやってきた宇宙人とのこと。「ピンメ〜ン」というフレーズが頭から離れなくなる。『はたらくピンメン』(リトル・モア)を立ち読み。笑ったよ。
▲表参道NADDIF。天明屋尚「画強」展。暴走族やヤンキーなど、街のアウトサイダーたちを、江戸時代の傾き(かぶき)者になぞらせたイラストレーションを展示。アディダスのスニーカーを「兜」に仕立てたオブジェに感嘆。けっこうな値段が付いている作品が売れていることにちょっと驚いた。天明屋尚(てんみょうや・ひさし)は1966年生まれ。「ネオ日本画絵師」を名乗っている。作品集『ジャパニーズ・スピリット』(学研)が発売されたばかり。
▲NADDIFで「中川幸夫 魂の花展」の図録を購入。今年の4月29日(火)〜6月8日(日)まで 鹿児島県霧島アートの森で開かれた展覧会の図録。荒木経惟、森山大道とのコラボレーション、何よりも、その花のワイルドなパワーに圧倒されて買ったのだが、かなり有名な人なんですね、まったく知らなかった。中川幸夫は1918年香川県生まれ。はじめ、池坊でいけばなを始めたが、のちに退会。現在まで前衛いけばなの第一線にいる。花のほかにガラス造形もやっていて、花と組み合わせた作品も作っている。
▲花は美しいが、その裏には毒もあれば闇もある。「死」の影がつきまとう。しかし、光と影があってこそ、花は光り輝く。時にはグロテスクですらある中川幸夫の作品には、生と死のダイナミズムがあり、いけばなの奥深さ、恐ろしさを感じる。荒木経惟の写真作品に一脈通じるところがあり、アラーキーはこの天才中川幸夫の影響を強く受けているのではないか。中川自身は土門拳を師と仰いで自ら作品撮影も行なう。この図録にも収められているが、写真撮影の腕前も見事なものである。豪華作品集『魔の山』(求龍堂)も今年刊行された。28,000円ナリ。
▲新大久保。チュニジア料理店ハンニバル。お店のおかみさんが臨月だったはずなので、そろそろ赤ん坊が生まれたかなと思い、夕飯を食べに行く。店主のモンデールに聞くと、予定日は23日で、まだ出てこないとのこと。途中でおかみさんご本人が顔を出し、うちのカミさんと妊婦話で盛り上がる。うちは28日が予定日なのだ。もういいかげん、早く出てきてくれ、というのがこの日の結論。


2003/07/18/Fri.
▲曇り。
▲終日、家で仕事。


2003/07/17/Thu.
▲曇り。
▲白金高輪で打ち合わせのあと、何となく恵比寿まで歩いてしまう。途中、商店街があったり古い家が残っていたりして意外の感。
▲テープ起こしと下ごしらえ。本格的な作業は明日。
▲マンガ『寄生獣』読了。さわやかなラスト。岩明均、『風子のいる店』と『寄生獣』のどこに接点があるのかわからなかったが、最後まで(あとがきまで)読むと何となく了解できる。『風子のいる店』も断片的にしか読んだことがないので、まとめて読めばまた印象が変わるのだろうか。
▲『寄生獣』を読みたいと思ったのは『人を殺してみたかった 17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ』(双葉文庫)を読んだからだ。「人を殺してみたかったから」という衝撃的な言葉を残した17歳の殺人者が愛読していたのが『寄生獣』だった。
▲確かに『寄生獣』には、他人の死を哀しみ、生命の大切さを感じる人間を奇異なものとして捉える「寄生獣」が登場する。人間に寄生し、脳を乗っ取り、人間を餌にする彼らには、生き残りたいという欲求はあるが、ほかの生き物の命を奪うことに良心の呵責はない。だからこそ、人間の示す感情を不思議に思う。
▲こうしたエイリアンものは昔からあるが、たしかに『寄生獣』の表現は直裁的で残虐、徹底している。しかし、だからといって、『寄生獣』の影響で17歳の殺人者が生まれたとは思わない。作者も、多くの読者も「寄生獣」の側ではなく、人間の側から「寄生獣」を見て、彼らの生き物としての率直さに不気味なものを感じるという前提でこのマンガは作られている。しかし、17歳の殺人者は、ひょっとすると、このマンガを「寄生獣」の側から読んで「人間は変わった生き物だ」と思ったのではないか? だとすれば、作者、出版社が「一般的」だと感じている常識が失われていることになる。その感覚、感性の変容こそが恐ろしい。命の大切さ、なんて自明のことではないのか? それをいちいち説かなきゃいけない社会ってどうよ? と思う。
▲ドラマ『高原へいらっしゃい』第3話。山田太一脚本の同名ドラマをリバイバル。脚本は別の人が書き直している。旧作は田宮二郎。新作は佐藤浩市。うろおぼえだが、子供の頃に見ていたような気もする。田宮二郎が演じていた役柄は誰が演じても田宮とは違う。その違和感が拭えないのが不思議だ。田宮二郎のようなタイプの役者は突然変異であって、後にも先にもああいう人はいない。ドラマのスジはダメな連中が集まってがんばるという「がんばれベアーズ」的な物語で好みだ。
▲映画『ラストシーン』(2003年・日韓合作・中田秀夫監督)をビデオで。1965年の日活(を思わせる)撮影所と2000年の日活調布撮影所(たぶん)を往還するゴーストファンタジー。映画の撮影所を舞台にしたホラー映画『女優霊』という秀作をものしている中田秀夫監督による、再びのバックステージもの。1965年の撮影現場がなぜか香港映画の撮影現場に見えたり、2000年に作られている映画が下らなさすぎたり(「ドクター鮫島 THE MOVIE」カツドウ屋のテレビ屋への皮肉は見飽きた)、ちぐはぐな印象を受ける。しかし、バックステージものは出来が悪くても、映画好きには楽しいものだ。麻生久美子が出ているだけでいい、という人にももちろんおすすめ。ほかに、若村麻由美の古風な味わいが印象に残る。
▲深夜番組を見ていたら堀越のりが出ていた。ふと「ブスドル」という言葉を思いつく。アイドルというものが世間に認められて以来、「ブスドルの系譜」ってのがあるような気がする。


2003/07/16/Wed.
▲曇り時々雨。
▲午前中は企画書書き。久々に企業向けのものをお行儀よく書いたので、書いては直し。関係者各位に送ってから遅めの昼食と雑用。
オリンパスプラザ東京にデジカメを持っていく。ブツ撮りに使っているキャメディアC5050のレンズにゴミが入ったようなので、分解清掃をお願いに。レンズ一体型とはいえ、完全密封ではないのでレンズにゴミが入ることもある。雑に取り扱ってたからな……と反省。最近の生活防水デジカメ(オリンパスでいえば、μ-10、μ-20)は、ゴミ対策としても有効なんだなとあらためて実感。
デイズフォトギャラリーで、小林紀晴写真展「South No.1」を見る。「South」シリーズの第1弾と位置付けられる作品展。モノクロームの、少し沈んだ色調が、東南アジアの湿気った、重たい空気を感じさせる。しかし、リアルというよりは、どこか夢の中の風景のようでもある。あえて説明的な写真を少なくし、断片的なイメージに重心を置いているあたり、写真家の模索がうかがえる。撮影地はミュンマーなど。個人的にはミャンマーを訪れた時のことを思い出し、懐かしさも覚えた。
▲デイズフォトギャラリーは写真家、作家の小林紀晴自身が主宰するフォトギャラリー。6月にオープンし、こけら落としは椎名誠写真展「海を見に行く」だった。「South No.1」は2つ目の写真展ということになるが、ギャラリーはできたてのほやほやという初々しさがある。センスの良い手作り感。すてきなギャラリーだ。ブックストアも併設している。すぐ近所にもう一つ、フォトギャラリーニエプス(代官山から移転してきた)もある。今日はあいにくお休み(というか、休止中?)。
▲引きこもり気味に原稿。途中でマンガ『寄生獣』を読んで厭世的な気分になったり。
▲ドラマ『池袋ウェストゲートパーク』(第4巻)。いよいよ面白い。学習障害の男の子が誘拐される話と、マルチ商法の親玉(MIE)の話。クドカンは「ちょっとイイ話」を作るのが巧い。ミステリアスな小雪(小雪というよりは大雪だろうと思うが)が出てくると、がぜん、画面が生き生きとする。そんな感じです。


2003/07/15/Tue.
▲曇り。
▲7月4日以来の更新です。ご心配下さった方、すみません。生きてます。それと、まだ子供は出てきてません。よく動いているので、もうちょっと先みたいです。先日、ちょっと勘違いしたんすけどね。
▲オンライン書店bk1「怪奇幻想ブックストア」記事のアップ作業。7月16日発売(明日だ)の極上カメラ倶楽部『645新世紀 中判カメラ入門』(双葉社)の献本先一覧を作成。版元にメールを送る。「チーズプラザ」色校をもう一度、自然光の下で確認。赤字を入れて戻す。
▲たまっていた日記をようやく一通り書く。でも、なんとなく、たくさん大事なことを忘れているような気がする……。
▲横木安良夫『熱を食む、裸の果実』(講談社)読了。女性写真、ベトナムの写真などで著名な写真家が書いた、初めての長篇恋愛小説。東京を捨てホーチミン市に移り住んだ日本人女性麻伊子は、アオザイを着て街を歩いているところを、ライジと名乗る日本人カメラマンに撮影される。ライカM4とEOSのデジタルカメラでベトナムを撮っているというライジは麻伊子との行為をすべて写真に収める。ライジとのインモラルな性関係に溺れていく麻伊子。しかし、彼女にはベトナム人の美しい青年クアンという恋人もいた。
▲南国+壊れた恋愛、狂った性愛という物語はやや紋切り型だが、彼の地に詳しい作者だけに、細部が凝っていて飽きさせない。また、ヒロインにねっとりとした魅力があって妄想を刺激する。また、小説でありながら一種の写真論になっているところも読みどころだった。小説家が写真家(カメラマン)を描くとどうしてこうも陳腐なのか、と思わされることが多いのだが、この小説に登場する写真家は、この職業に特有のある性質を備えていて、リアルだ。その性質とは何か? 一言で言えば「写真家は観念的だ」ということだ。一般的に写真家は現実しか見ていない、現実主義者のように思われがちだが、実は、芸術家全般の中でもっとも観念的な人たちなのではないかとぼくは思っている。この小説も、写真家横木安良夫の観念が、物語として噴出したものなのではないかと感じた。
東京写真文化館で、『熱を食む、裸の果実』の作者、横木安良夫の写真展「サイゴンの昼下がり1994〜2003」を見る。写真と文章で構成された単行本『サイゴンの昼下がり』(1999年・新潮社)も出している写真家が、サイゴン(ホーチミン市)へ通った時間のなかで撮影したさまざまなイメージを集大成した作品展。街の風景から、スナップ、ポートレートと、さまざまな手法と、多角的な視点でサイゴンを撮影している。
▲会場で横木さんとお会いし、分厚いファイルを見せてもらう。会期中、会場で見ることができるはずなので、写真展に足を運んだ人はぜひ見て欲しいのだが、そのファイルには、横木さんが学生の頃から、現在まで撮り続けている若者たちの写真が収録されている。最初は被写体と向かい合い、最近では盗み撮りへとスタイルを変えながら、時代と人を撮っている。見応えのある作品集だ。
▲場所を移して横木さんと打ち合わせを兼ねて軽く飲む。横木さんとお会いするのは二度目だが(ベトナムを題材とした本を書いているノンフィクション・ライターの神田憲行さんにご紹介いただいた)、ちゃんとお話しするのは初めて。写真についての考え方を主にうかがい、共感を覚えた。篠山紀信のアシスタントを経て、広告や雑誌で活躍してきた横木さんが、あえて個人的な作家活動の中でやろうとしていること、その方法論に、とてもアクチュアルなものを感じたのだ。写真を撮るだけでなく、文章も書き、フィクションの世界にまで挑戦している横木さんの旺盛な創作意欲の根っこが少し理解できたような気がする。


2003/07/14/Mon.
▲雨のち曇り。
▲早起きしてサボっていた「日記」をまとめて書こうとするが、はかどらない。入稿後の原稿、データの整理。
▲会社員だった頃の先輩Yさん(女性)がこの日記を見て、育児用品を譲ってくれるというメールをくださった。今日は、お言葉に甘えてブツをいただきに夫婦でご自宅へうかがった。Yさんは昨年出産したばかり。いろいろと出産、育児について研究していて(というと、ご本人は否定するけど)、参考になる話を聞くことができた。Yさんが会社を辞めて以来の再会だったのだが、変わらずおきれいで、かつテンションが高いので嬉しかった。ありがとうございました。
▲「チーズプラザ」色校。まだ半分だけ。ブツ撮りしたデジカメデータがどう出るか心配だったが、うまくいってほっとする。
▲インドカレーをお腹一杯食べたらぐったりしてしまい、「あいのり」を見て寝る。


2003/07/13/Sun.
▲雨のち曇り。また雨。
▲数ヶ月間ほったらかしにしてあったポジ、ネガの整理。ダメポジを切り刻んで棄てるのは快感。
▲義父母来宅。鶏料理「栄屋」へ案内。
▲「池袋ウェストゲートパーク」第3巻の後半をビデオで。まだ「大物感」が感じられない小雪が新鮮。
▲映画『ピンポン』。これも宮藤官九郎脚本作品。監督はアメリカ帰りのVFXディレクター、曽利文彦。新機軸はピンポンの玉をCGで描いている点。見慣れているものをCGで描くのってごまかしがきかないぶん、難しいと思うのだが、じつによくできている。肝心のプレイシーンの迫力をCGで演出。かなりの迫力。
▲街のおんぼろ卓球場。賭け卓球にいそしんでいるペコ(窪塚洋介)を、幼なじみで同じ卓球部のスマイル(ARATA)が呼びに来る。スマイルネクラで元いじめられっこ。少年時代に自分を救ってくれたペコに憧憬を抱き、卓球を始めた。天賦の才があるにもかかわらず、ペコとゲームをする時にはカットに徹して、一歩引いてしまう。
▲言動もプレイスタイルも破天荒なペコは、根拠のない自信にあふれているが、上海からやってきた留学生のチャイナ(サム・リー)にあっさり負け、さらに自分より弱いと思っていた幼なじみのアクマ(大倉孝二)にも敗れ、卓球生活からドロップアウトしてしまう。一方、スマイルは、コーチ(竹中直人)に才能を認められ、特訓を受ける。ペコは帰ってくるのか? スマイルはペコに勝てるのか? 卓球に青春を賭ける男子高校生たちを何のてらいもなく正攻法で描く。
▲過去の作品へのオマージュなのか、たんに似てしまったのかはわからないが、ペコとオババ(夏木マリ)は『バタアシ金魚』、最大のライバル、ドラゴン風間(中村獅堂)の高校は『一、二の三四郎』を連想させる。そのへんでネタが割れてしまっているからか、展開が容易に読めてしまってやや退屈。しかし、ペコ、スマイル、チャイナ、ドラゴン、アクマという各人のキャラクターの彩りが魅力だ。とくにサム・リーがまとっている香港映画の風、中村獅堂が巻き起こす殺気が新鮮だった。


2003/07/12/Sat.
▲晴れ。
▲久しぶりの休日。新宿まで散歩。映画『二重スパイ』を見る。1980年代、全斗喚政権時代。元北朝鮮軍部エリート情報官、イム・ビョンホは、東ドイツから命がけで韓国に亡命してきた。しかし、韓国安全企画部(韓国の諜報機関。KCIAの後身)はビョンホに疑惑の目を向け、過酷な拷問を加える。ビョンホは口を割らず、亡命を認められる。就職先は安全企画部。諜報活動指導官として、脱北者の諜報員育成に当たった。
▲ビョンホは表向き、韓国に忠誠を誓う転向者として職務に忠実に毎日を暮らしていたが、実は二重スパイだった。放送局のDJを通じて指令を受け取ったビョンホは、二重スパイとして、危険な橋を渡ることになる……。
▲南北統一など夢のまた夢。朝鮮戦争の影を払拭できずに、深刻な対立の時代にあった80年代の朝鮮半島。当時の政治情勢を赤裸々に描いた意欲作である。安全企画部の執拗な拷問、スパイがでっちあげられるメカニズム、脱北者への容赦ない監視などをリアルに描く一方で、北朝鮮政府の「見えない恐怖」が映画全体に影を落とす。主人公を演じたハン・ソッキョは名優の域に達した好演ぶり。北朝鮮に渡った革命家の父を持ち、スパイになるべくして育てられたヒロイン、ユン・スミを演じるコ・ソヨンの美貌と、たおやかな表情も魅力的だ。韓国映画の好調ぶりを実感できる秀作。
▲青山光二『吾妹子哀し』(新潮社)読了。本年度の川端康成賞を受賞した短篇小説「吾妹子哀し」と、書き下ろしの中篇「無限回廊」を収録。いずれの作品も、という作者の分身である主人公「杉圭介」と、痴呆症の老妻との日々を描いた作品である。妻の記憶が過去と現在を彷徨うように、書き手の筆も回想から現実へと自在に時間を行き来する。そして、精神の崩壊が静かにはじまった妻の悲しき姿を淡々と綴っていく。悲しい話には違いなく、その無惨さも十分に描かれているが、どこか、作品にのどかなムードがあるのはなぜなのか。ギリギリのところに追いつめられていてもなお、作者には余裕があるように感じられる。その態度に、ベテラン作家が至った「大人」の境地を見る思いがする。


2003/07/11/Fri.
▲晴れときどき雨。のち曇り。
▲大掃除。
▲八木さん、當麻妙、シライさん来宅。掃除で料理までは手が回らず、近所の「梨花」でじゃがいもチヂミ、プルコギ、鶏鍋、温麺、石焼きビビンバ、韮チヂミ。食い過ぎだって! 部屋に帰って、写真やカメラの話題で談笑。


2003/07/10/Thu.
▲雨のち曇り。
▲「一枚の繪」取材。東京芸術大学デザイン科に大薮雅孝教授を訪ねる。インタビュアーは「一枚の繪」発行人兼編集人の山城一子氏。今回の取材では、有元利夫らを育てたことでも知られる大薮さんに芸術教育について訊いたり、特集テーマである「自画像」について語っていただいた。大薮さんは美術家であると同時に独得の理論をお持ちになった教育者という印象。
▲続いて、東京芸術大学美術館で学芸員の野口玲一さんに取材。東京芸大の油画(西洋画科)では創立以来、卒業制作に自画像を提出させているという。その慣習は、現在では日本画科、彫刻科などにも広がっているとか。東京芸術大学美術館ではその自画像をすべて収蔵している。2002年春には「〈洋画〉の青春群像−油画の卒業制作と自画像−」展も開いている。そこで、なぜ、自画像を描かせるという慣習が始まったのか。その歴史的背景と、意図などについて野口さんがお話くださった。
▲「チーズプラザ」入稿完了。ホッと一息つく。
▲オンライン書店bk1がオープン3周年を迎えたということで、突然、電話で飲み会に誘われる。もう3年も経ったと思うと驚き。みんないい感じでできあがっていて、楽しかった。有志で新宿へ流れ、「モンシリ」でマッコリ。


2003/07/09/Wed.
▲曇りのち小雨。
▲新宿で藤澤真樹子さんと待ち合わせ、文字校正をチェックしてもらう。ついでに、追加で何枚かポートレートを撮らせてもらう。
▲松本賢吾さん、草野さんと「昔のふるさと」で犬鍋(1年に一回くらいは食べに行く。暑気払いということで)→ゴールデン街「かぼちゃ」。かぼちゃの陽さんは小笠原に行っていて、しばらく帰ってこないそうです。
▲オンライン書店bk1「怪奇幻想ブックストア」に『平田篤胤が解く稲生物怪録』刊行記念 荒俣宏インタビューをアップ。ぼくがインタビューしています。
▲「怪奇幻想ブックストア」にもう一つ記事をアップ。『幻想文学』終刊フェア特別企画 編集人(東雅夫)VS.発行人(石堂藍)対談。21年の歴史に終止符を打った「幻想文学」誌。その歴史を振り返った特別対談です。原稿のまとめはbk1の砂見くん。俺も同席したかった(『645新世紀』の校了とぶつかって叶わなかった)。
▲原稿の直しと、入稿準備をしてから就寝。


2003/07/08/Tue.
▲曇りのち雨。
▲メディア・セレクトにレビュー用のカメラの返却と文字校正の受け渡し。板橋にカメラ返却に行き、お昼をご馳走になる。喫茶店でAさんと日本映画の話。ヨーロッパ旅行の話など。盛り上がる。
▲夜までかかって藤澤真樹子さんの取材原稿を書く。その合間にbk1の記事アップの準備を地道に。


2003/07/07/Mon.
▲曇り。
▲いまにも降り出しそうなムード。夕方、「チーズプラザ」のために、写真家の藤澤真樹子さんを取材。テーマは「大切な人を撮る」。ポートレートをどうやって撮るかとか、まあ、そんな話。藤澤さんは1976年生まれ。高校卒業後、単身沖縄に移り住み、その後東京、次はキューバと居を写しながら写真を撮ってきたという女性。キューバの写真で第3回三木淳賞を受賞した。藤澤さんには「季刊クラシックカメラ」の新人写真家紹介ページに登場していただいたことがあって、以来、ずっと気になっていた人。元気そうでよかった。最近のポートフォリオなど見せてもらう。ドキュメンタリーのほか、ファッション方面の写真もかっこよかった。


2003/07/06/Sun.
▲曇り。
▲終日「チーズプラザ」の原稿。というか、よく覚えていない。


2003/07/05/Sat.
▲晴れのち曇り。
▲「チーズプラザ」の原稿。先割りしてもらった分に追いつき、写真などの材料がそろった記事の原稿を書きはじめる。途中で足りないことに気づいた写真をあらためて撮る。デジカメのおかげで、現像所を通さなくてよくなったけど、写真切り抜きなどの作業も負担することになってしまい、面倒が増えている。「便利」の意味を考えさせられる。


2003/07/04/Fri.
▲曇りのち晴れ。
▲「645新世紀」再校。色味で納得がいかない部分と、この期に及んでテキストの修正。再校は明日のお昼、ということで。
▲帰って昨日のブツ撮りの続き。写真集と、カメラ、レンズ。白い紙を敷いて、三脚に付けたストロボとアルミ箔を張ったダンボールで照明し、デジカメで1枚撮ってはモニター確認の繰り返し。妙な具合に夢中になってしまい、深夜までかかる。


2003/07/03/Thu.
▲曇り。
▲窓辺でブツ撮り。新宿で買い物。「池袋ウェストゲートパーク」のビデオ、第2巻。なんか、「ケイゾク」みたいだな。堤幸彦節か。3巻には古田新太が出るみたいなので期待しておこう。
▲横山秀夫の最新短篇集『真相』(双葉社)半分まで。面白い。横山秀夫は、松本清張みたい……というのが第一印象だったが、実は『人間交差点』じゃないかと気づく。もっとも、『人間交差点』は清張みたいな部分もあるから、アレだけど。この短篇集は著者お得意の警察小説とは違い、犯罪に関わる普通の人々の光と影を描いて読み応えがある。そのへんで、『人間交差点』を連想したのだろう。警察小説のほうが、ややマンネリ化していたところだったので、新鮮。残りを読むのが楽しみだ。


2003/07/02/Wed.
▲晴れ。
▲「645新世紀」色校。恐ろしい間違いを発見した安堵と、さらなる誤植の恐怖。
▲神楽坂で男性モデルの撮影。Sさん、ナイスガイ。
▲横須賀中央駅下車。開けている。チェーン店が軒を並べる、陽が回りすぎているようなタイル道。どこもかしこも同じ顔の街になってしまうのはつまらない。しかし、「自衛隊金融」なる看板を見て嬉しくなる。土地柄か。さらに、再開発される前はかくや、と思わせる、線路沿いにへばりついたような飲屋街が素敵。「笑っちゃいけない店」というテーストレスな店名、最高です。
▲林明輝先生に「645新世紀」の色校を見ていただき、若干の修正。編集部に戻り、夜中までかかって全部印刷所に戻す。
▲乙一の最新短篇集『ZOO』(集英社)読了。期待していたせいか、肩すかしをくらった印象。しかし、『GOTH』(角川書店)のヒロインと一脈通じる双子姉妹が登場する「カザリとヨーコ」、手塚治虫的SF世界「陽だまりの詩」、『悪童日記』風というか、クールかつ恐怖に満ちた寓話「冷たい森の白い家」、アメリカンサイコの世界に姉弟愛と勇気を持ち込んだ「Seven rooms」など、ヴァラエティに富んだ乙一の世界を堪能した。しかし、いずれも、どこか未完成という雰囲気を感じるのだが。ところで、乙一と乙葉。誰か共通点を探してくれないか。


2003/07/01/Tue.
▲曇りのち雨。
▲日帰りで京都。あいにくの雨。
GALLERY ississ。北義昭写真展「動物」。動物の局所拡大モノクロ写真。怪獣のような凶暴さを感じる写真もあれば、草原のような広々とした原初的な「風景」をイメージさせるものもある。自然にできたものの「かたち」の不思議さ、とくにそれがプリミティブに放出されている感じ。いずれもひどく静かな写真。
何必館・京都現代美術館。渡辺兼人写真展「不在のなかの存在」(〜7日6日)。「既視の街」(1980年)で木村伊兵衛賞を受賞した写真家の、初めての回顧展。初期作品「既視の街」「逆倒都市」では町歩きの中で写真家の意識の中に「引っかかってくる」風景を凝視している。そのまなざしの強さが印象的。街から出てうち捨てられた自然に中に美を発見する「半島」、生活感が宙に浮いたような奇妙な味わいの小屋を撮影した「半島」。そして、川、水の流れを消えてしまいそうなギリギリのところで表現した最新作「水無月の雫」へと、写真家の歩みが一望できる。それぞれの写真は一枚だけ取りだして云々するよりも、作家活動の連続性で輝く。しかし、すべての展示を見終えた後には、フラッシュバックのように、いくつかの作品が印象づけられている。すべてモノクロ。「何必館」は魯山人の作品の展示でも知られる優美な美術館。
ニュートンでアイスコーヒー。ギャラリーカフェになっていて、アーティストの作品ファイルも置いてある。学生街にありそうなカフェ。あいにく、展示は写真ではなかった。
エプソン・ピエゾグラフギャラリー京都。三輪薫写真展「風香」(〜7月14日)。伊勢和紙、越前和紙にエプソンの最新インクジェットプリント技術「ピエゾグラフ」でカラープリントした風景写真。紅葉した山々、雲海、夕暮れの海、桜……。きあめて日本的な風景写真だが、その写真が和紙にプリントされることで、写真とも絵画ともつかない不思議な情感を持ったイメージに昇華された。写真的とか、絵画的とか、そういう分類の仕方を軽々と超えて表現された世界である。一枚一枚の写真に凝らされたたくらみの面白さを堪能した。
▲桐野夏生『グロテスク』(文藝春秋)読了。力作である。東電OL事件を下敷きにした長篇小説。怪物的な美貌の持ち主の妹と、その妹と姉妹とも思えないほど平凡な容姿の姉。妹は15歳で売春をはじめ、やがて容色が衰え、街娼に墜ちて死ぬ。妹を憎んでいた姉のもとに、高校の同級生から電話が掛かってくる。地味なガリ勉だったその女は、電話でその妹と同じ仕事をしていると告げる。そして1年後、その女も殺される。昼は大手建設会社のシンクタンクに務め、夜は街娼だった女。物語の中心は、彼女たちの出身校である名門校Q学園における、歴然とした「階級」差と、その階級社会でどう生き抜くかに腐心する女たちの戦いにある。桐野夏生の最近の(『玉蘭』からか)作品にやや唐突に現れる「戦争」という言葉の核心に近づく。その行き着く先が売春の客に殺されるという結末なのか。途中、重要な登場人物がオウムを思わせる新宗教の犯罪に関わったり、三島由紀夫風の盲目の美少年が現れたりと、道具立てはにぎやか。例によって、語り手を変え、時制を前後させるなど、凝った構成も読みどころだ。しかし、この長い物語を読み終えて、どこか物足りない感じが残るのはなぜだろう。物語はちゃんと終わっているのに、何か、作者が吐き出しかねているものが残ってしまっているというか。作者にとって『OUT』『柔らかな頬』以来、もっとも重要な作品であることは間違いないが、前2作に対するような素直な感嘆には至らなかった。


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