【アルカリ】0574
01/ 05/11(金)

『十四歳』
(井田真木子・講談社・1700円+税)

 故・井田真木子、最後の長編ノンフィクション

 3月14日に亡くなったノンフィクション作家、井田真木子の、生前刊行された最後の単行本である。奥付を見ると98年初版。井田真木子は多作な作家ではないが、それにしても最後の単行本がもう3年も前の本だったということに驚いた。

 井田真木子の死について、ご存じのない方のために書いておく。深夜自宅で倒れ、救急車で病院に運ばれたときには亡くなっていた。死因は発表されていない。肝臓を患っていたという報道もされているが、精神的に不安定だったという話が一部のマスコミにでていた。

 ぼくは井田真木子ファンで、大宅壮一賞を受賞した『プロレス少女伝説』(文春文庫)、中国残留孤児の家族に密着した『小蓮の恋人』(文春文庫)、日本でコミュニティーを立ち上げたゲイたちの青春を描いた『もうひとつの青春』(文春文庫)、いずれも濃い本で強い印象を受けた。

 井田真木子のノンフィクションはどれもずっしりと重い。中心となるモティーフを掘り下げていく縦軸の進行だけでなく、そこから関連したネタに、時には飛躍があると感じられるほど大胆に取材対象を広げていく。彼女の本を一冊読み終えると、数冊分の本を読んだのと同じくらいの充実感があるのだ。

 『十四歳』は援助交際をモティーフにしたノンフィクションである。人の親でもなければ十代でもなく、十代の子供たちと縁もゆかりもなかいぼくは、本書の存在すら気付かなかった。井田真木子のファンではあったが、前述の『もうひとつの青春』のゲイに対する井田の入れ込み方の激しさにいささか辟易させられていたので、しばらくはいい、と思って見過ごしたのかもしれない。

 『もうひとつの青春』の中で井田はゲイに対して不寛容で鈍感な日本社会にマジギレしていた。その怒りの凄まじさは誠実なものにはちがいないけれど、所詮はヘテロでしかない一読者としては当惑を感じ得なかった。そして今度は援助交際。井田のテンションが上がれば上がるほど、こちらとしては引いてしまう。そんな予感があった。

 井田はプロローグですり鉢状の地形を持った渋谷をコーヒーカップに喩える。そして、カップの縁には金持ちが、底には「コーヒー滓」のごとき少年少女がいるのだ、と語る。その相手はサンフランシスコで少年少女たちの問題に取り組んでいるNPO(非営利公益法人)の牽引者ロジャー・ヘルナンデス。彼は井田の話を聞いて、「その街は絶望の街だ」と断じる。

 援助交際のメッカ、渋谷の街を大づかみに捉えて、それをサンフランシスコに投げる。一見、飛躍に見えるこのやり方が、井田流だ。

 しかし、プロローグでいきなり「絶望」というのは大げさじゃないか。正直、そう思った。

 ついで、渋谷のハチ公前交番のベテラン警官に渋谷の近年の変貌について語らせる。そして、援助交際のさきがけとなった「プラクラ」なるデートクラブ、そこで働く少女たちが登場する。

 十代の少女たちのブランド品への欲望、その欲望を満たすための売春、それに付随する性的逸脱、痩身願望などなど今に至るまで、たぶん、大して変わっていないであろう、危機的状況が次々に挙げられていく。

 少女たちの中で「冴矢」という仮名を持つ17歳の少女が選んだ井田は、彼女を連れてサンフランシスコへ飛ぶ。アメリカの少年少女の状況は、日本より5年進んでいる。そこに日本の近未来があるとすれば、その近い将来を冴矢はどう見るのか。

 冴矢は一万円の取材謝礼を目の上までかかげて謝意を表してから受け取るような、古風な一面を持った少女だ。両親は団塊の世代に属するが、同世代の大卒(全共闘世代)と共通する時代認識はおそらくない。中卒で、若い頃はヤンチャだったが、自分の才覚でカネを稼いできた。そして、事業に成功し、冴矢たちは子供の頃に贅沢な暮らしをすることもできた。しかし、バブル崩壊、両親は別居し、子供たちは学校からドロップアウトしていく。しかし、家族という単位はそのままで存在している。形骸化した家族が冴矢の帰る場所なのだ。

 冴矢には帰る場所がある。しかし、サンフランシスコには家はあっても、そこに帰ろうとしない子供たちがたくさんいた。彼らは87年にその存在を社会から認識され「ストリートサヴァイバー」と名付けられた。「売春をするが売春婦ではなく、クスリはやるが常習者という認識がない。10代の少年少女」のことだ。そして、いくつかの群をつくって暮らす。

 冒頭に登場したロジャー・ヘルナンデスはラーキン・ストリート・ユース・センターというNPOを運営し、ストリートサヴァイバーたちを援助している。援助はなまなかなことではない。なぜなら、ストリートサヴァイバーたちは家はあっても、帰れ
ば家族から抑圧される。かといって、社会で生きて行くにはひよわすぎる存在だからだ。その一方で、まがりなりにも生きていけるだけの最低限の収入が売春で得られ、そのうさをはらすためにクスリをやる。家族の問題と、社会の問題と、彼ら自身の問題が重なり合ってにっちもさっちもいかなくなっているのだ。
 
 冴矢はヤク中のストリートサヴァイバー、ネリと知り合い、ネリの悲惨な状況に愕然とする。しかし、そのショックが癒えた途端、猛然とブランド品を買い漁る。取材当時40歳だった井田は辛抱強く冴矢に質問を繰り返す。なぜ売春するのか、なぜブランド品が欲しいのか、なぜ痩せたいのか、ネリを見てどう思ったのか。これからどう生きていきたいのか……。

 井田の粘り強さに、ほとんど呆れるような気持ちを抱きながら読んだ。なぜ、井田にとって冴矢が、売春する十代が興味の対象となるのか。ジャーナリストとしての関心以上の迫力があるのだ。そして、その理由は、クライマックスのロジャー・ヘルナンデスとの対話の中で明らかにされる。しかも、唐突に。そして、その理由を、理由と考えることを拒否するかのような、なんでもないかのような書き方で、書いた。ぼくは、何度もそのページの前後を読み返した。自分の読み違いではないかと思ったのだ。

 『ノンフィクションを書く!』(藤吉雅春・ビレッジセンター・1600円+税)という本がある。高山文彦、永沢光雄、吉田司、金子達仁などの人気人フィクションライターへのインタビュー本だが、井田はこの中に登場してひときわ異彩を放っている。

 井田は会社勤めのあと、フリーライターとして仕事をした。時代はバブル。企業のPR誌など、仕事は引きも切らさずあった。それも、無署名で、記事のとりまとめをするアンカーマン的な仕事が多く、編集者にも会わず、黙々と仕事をこなした。ピークには一ヶ月に23媒体で59本の企画をこなしたこともあったという。

 しかし、井田はあるとき、このバブル状態に不安を感じ、単行本を書くブックライターになることを決意する。そのとき、井田が発想した単行本の書き方というのがユニークだった。

 温泉芸者を長く続けた老婆を取材した井田は、最初に5枚の原稿を書いて雑誌に渡した。そこで、井田はこの温泉芸者の一代記を書こうと思う。そのとき井田が考えたのは、5枚を100倍して500枚書くこと。100倍すれば「質量変換する」と井田は言う。タテ軸に主人公の女性の人生を時間順に取り、横軸として時代、世相を90度に交差させる。その構成で500枚書く。そうすれば、一冊の本を書いたことがない自分にも一冊書き切れるだろうと予測する。

 井田のこの発言に対して、インタビュアーである30歳のフリーライターは当惑を隠さない。読者もそうだろう。井田には独特の方法論があり、それは彼女を動かすエンジンでもある。井田はインタビューの中で、本を書くことをマラソンにたとえ、ペース配分について話す。その口調は合理的かつ論理的なのだが、その合理のよって立つ土台は、彼女自身の生理的なものだとしか感じられない。

 そして、そのことを彼女自身、よく理解していたから、自分の取材は「徘徊」であり、取材したもののうち、9割は使わないと言い切る。事実、どの本も最低でも二年は取材しているのだ。

 独自の方法論によって効率をめざさず、非効率的であろうとも、自らの生理に忠実であろうとした井田真木子という書き手の底深さは、一冊でもその著作を読めばわかる。しかし、その舞台裏はどんなものだったのか。井田の本は、どれもノンフィクションライターである「私」が取材対象とどうつきあっていくかが克明に描かれている。しかし、そこに登場する「私」は井田真木子という女性のほんの一面にすぎなかったのではないか。

 『十四歳』のクライマックスに何が書かれていたかは、ぜひ本書を読んで考えていただきたい。井田真木子という書き手がいかに希有で、才能にあふれ、そして、生き、書こうとしていた人間かが切々と伝わってくる。最後の1ページまでエネルギーが満ちている渾身の、そして当の井田が亡くなってしまったことで、実に、切ない本である。

 井田真木子は1956年神奈川県生まれ。慶大文学部哲学科卒。早川書房に勤務後、81年よりフリーライター。89年に『温泉芸者一代記』(かのう書房)を刊行、前記の著書のほか『フォーカスな人たち』(新潮文庫)、しりあがり寿と共著のユーモアエッセイ『いつまでもとれない免許』(集英社)がある。


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