【アルカリ】0572
01/ 05/09(水)

『田中一光自伝 われらデザインの時代』
(白水社・2200円+税)

 「図案」から「デザイン」、「アート・ディレクション」までの戦後史

 戦後日本を代表するグラフィックデザイナー田中一光の自伝である。

 田中一光とはどんな人物か。1930(昭和5)年奈良市生まれ。京都市立美術専門学校(現在の京都芸術大学)の図案科を卒業後、鐘淵紡績(現・カネボウ)に入社する。産経新聞社を経て、広告制作会社ライトパブリシティ、日本デザインセンターへ。のち、田中一光デザイン室を主宰。数多くの広告デザインを手がけ、その活躍はデザインという枠を大きく越え「アート・ディレクション」という領域を日本において切り開いてきた。

 広告デザインという若い分野を切り開いてきた一人であり、日本人の生活文化の中にデザインという概念を持ち込み、啓蒙に励んだパイオニアである。東京オリンピック、大阪万博、札幌冬季オリンピックなどのビッグイベントにデザイナーとして参加。さらに、セゾングループのコーポレート・アイデンティティや、西武劇場(現パルコ劇場)や、セゾン美術館、セゾン劇場のアート・ディレクションも手がけている。そのほか、「太陽」などの雑誌のA.D.をつとめていたし、本の装丁も多数。ようするに、デザイン界の「巨匠」である。

 本書は、当年とって71歳になる巨匠の自叙伝である。残念ながら、図版は一切ない。こちらは乏しい知識でイメージをふくらませながら読むほかはなかったが、退屈することなく読了した。理由は、田中一光が日本のグラフィックデザイン、あるいはアート・ディレクションなる概念をいかにして確立し、浸透していったかをわかりやすい言葉で書いているからだ。成功者の自叙伝だから、サクセスストーリーには違いないが、それは田中一光だけのものではなく、日本のデザインの成功物語でもある。

 少年時代から文弱で、体力がなく軍事教練が大嫌いだった田中少年は、絵を描いたり、花を育てること、中原淳一の世界やお芝居、映画が好き。いささか少女趣味の少年だった。長髪の芸術家肌の先生にかわいがられ、美術専門学校への進学を勧められた田中少年は、画家は食えないが、図案なら手に職になろうと両親の許しをもらう。

 当時はまだグラフィックデザインなどという言葉はなく、鐘紡に進んだのも、我が世の春を謳歌していた紡績業界で、テキスタイルの図案を描くためであった。しかし、紡績業界の浮沈は甚だしく、田中は鐘紡をリストラに遭う。鐘紡から産経新聞社を紹介され入社。仕事は事務仕事だったが、新聞社にはイベントを仕掛ける事業部がある。頼まれもしないのに、事業部に顔を出しては、勝手にポスターを作って張り出していた。そのポスターを当時の大御所デザイナー吉原治良に認められ、正式に事業部へ転属となる。

 イベントのポスター、広告を手がけはじめた田中は、やがて広告制作会社の草分けライトパブリシティに入社、さらに、大手企業が共同出資した広告制作会社日本デザインセンターへ移籍する。その間、デザイナーたちの団体「日宣美」の中心人物としての活躍も華々しかった。

 当然、さまざまな有名人、著名人の名前が出てくる。森英恵を海外へ売り出すためのプロモーション映画『森英恵の世界』(30分)は、田中がアートディレクションを担当、監督は成島東一郎(『青幻記』の監督。日本映画の黄金期を支えた名撮影監督)、撮影は奈良原一高というとんでもない豪華作品だった。また、森英恵のロゴマークなどのデザインをてがけたのち、森をスポンサーにして浅羽克己と糸井重里を巻き込んで『流行通信』を創刊する、などなど。

 なんとも忙しく、かつ華やかな舞台を歩いてきた人である。それでいて、人間への見方が妙に淡泊なのがまたいい。

 日宣美が解散したときの件りに田中の性質がよくでている文章がある。「政治の季節」だった60年代、日宣美は商業主義のコンコンチキだ、というわけで、若手左翼系デザイナーたちが日宣美のコンテストを襲撃、日宣美内部も左翼に同調する若手が造反し、解散という結果に至る。そのとき、田中はこう思うのだ。

「日宣美が社会にもっとも貢献したのは、やはり東京オリンピックまでで、新聞の新しいレイアウトなど常に社会的提案を行っていた。それが一九六五年あたりを境にパタッとなくなり、イラストレーションを小綺麗にまとめるような技巧派が主流になった。それらを日宣美調などと言われていたから、まあ襲われるのもやむを得ないと思う。」

 んな身も蓋もない感想もないと思うのだが、田中のこの淡泊さは一人のデザイナー、アート・ディレクターとして生きていきたいという誇りに裏打ちされている。ゆえに、日宣美の解散のころは、世の中の騒然とした空気が田中の神経をさいなんだはずだ。60年代を馬車馬のごとしと評し、面白い時代だったと振り返りつつ、横尾忠則と土方巽がやっていたような泥臭い情念には違和感を感じていたことを匂わせる。この章の後段、田中はこんなふうに漏らす。

「日本デザインセンターを辞めてから大阪万博の仕事が始まるまでの七、八年間は、何もやっていないつらい十年だった」と。

 しかし、その60年代を否定しようとしないのは、おそらく横尾忠則たち、造反有理の若者たちのエネルギーにも魅力を感じていたからだろう。どっちつかずと批判した人もいただろうが、個人主義を通しているところが田中一光という人の魅力である。多方面に渡って仕事をしてきた人らしい、包容力である。

 本書を読もうと思った動機のひとつに、デザインと関わりの深い写真についての興味がある。デザインとは切っても切れない関係にある写真の昔話がでてくるに違いないと思ったからだ。田中一光自身は、本書のなかで写真を使うデザインは苦手で、タイポグラフィーのみとかイラストの方が好きだと述べているが、石元泰博さんとはずいぶん親しくされていたようだ。なるほど、石元さんはバウハウスの流れを汲むシカゴ・インスティチュートで写真を学び、カッチリとした構成の写真で知られる人。あの画面構成の確かさは田中一光のタイポグラフィーと一脈通じるところがあると納得した。


オンライン書店bk1『田中一光自伝 われらデザインの時代』

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