【アルカリ】0280号
99/07/30(金)

『カノン』
(篠田節子・文春文庫・552円+税)

 ジャンル分け出来ない優れたエンターテインメント小説

 重量別に階級分けするとしたら、中重量級くらい。ラーメンに例えれば、ちょっと濃厚なしょうゆ味。とくに気合いの入った野心作というわけではなく、どちらかというとさらりと書きあげたふぜいのある小説なのだが、ずしっと手応えがある。奇妙な小説だ。

 というのも、この本をもっていたときに、新宿でばったり大学時代の友人に会ったのだけど、その時に久しぶりに再会した友だちは「まあまあおもしろかった。ホラー小説」と短く感想を述べただけで、ぼくの読後感とは大きく異なる。
 もっとも、そういうエピソードも、この小説にはよく似合う、というのは、この小説の一つのテーマは、同じ音楽の一節がどう受け止められるかが人生の岐路になってしまうということだからだ。

 かつてはチェロ奏者としてプロの演奏家をめざし、厳しい練習を積んでいた瑞穂は、今では40歳を目前として生活の中に没している小学校の音楽教師だ。

 鋭敏な感受性も、燃えるような野心も過去となった彼女のもとに、大学時代の恋人が自殺したという報が届く。

 数学とヴァイオリン演奏に天賦の才を持っていた康臣は、その才能を十分に世間に受け入れられないまま、自ら命を絶ち、大学以来交際が絶えていた瑞穂に一本のテープを残した。そこには逆回しにされたバッハ晩年のカノンが康臣のヴァイオリンで演奏されていた。

 テープを聞いたときから、瑞穂は幻聴と幻覚に襲われ、封印したはずの大学時代の記憶が再び蘇ってきた。瑞穂がチェロを捨てるきっかけとなったのは、康臣と彼の友人正寛との三人だけで過ごした一夏の演奏合宿がきっかけだった……。

 人生の半ばに立った中年女性がおとなになっていく過程で知らず知らずのうちに過去に置き去りにしようとしてきたものを、再び取り戻そうとする「女性小説」の体裁を取っている。ぼくのような読者がメインターゲットにはなっていないし、小説を読む楽しみの中ではあくまでテーマの一部に過ぎないと思う。

 むしろ、中年女性を主人公に据えて、とかく湿りがちなメロディーラインをホラー小説風の味付けをし、音楽小説としての教養も楽しめる。そして、1970年代の若者たちの気分をそこはかとなく漂わせつつ旧制高校の気風を引っ張る地方の名門高校出身の二人の男性の友情と描いた青春小説としても読める。

 欲張りな小説だが、それらがお互いの素材の味を消していないし、どれも読者を最後まで引っ張っていく魅力になっている。

 篠田節子の小説が面白い、ユニークだという評判は聞きかじっていたけど、たしかに大向こうをうならせる才能がきらめく小説だった。そして、この人の小説は「これこれこういう小説」と説明するのが難しい。この小説も文春は「ホラー小説」と銘打って売ったみたいだけど、ジャンル分けが難しい小説だと思う。

 ともあれ、奥行きもあり佇まいも凛とした傑作である。

オンライン書店bk『カノン』

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