【アルカリ】0643
02/12/10

『タンノイのエジンバラ』
(長嶋有・文藝春秋・1333円+税)

 ディテールが呼び起こす記憶を楽しむ

 『猛スピードで母は』で芥川賞を受賞した長嶋有の第二作品集。こちらのほうが、ぼくは好きだ。ネタがバラけていて、長嶋有的世界がより明確に感じられる。

 表題作「タンノイのエジンバラ」はこんな話だ。
 失業中の「俺」は、隣の部屋に住んでいる母子家庭の母に頼まれて、娘の面倒を見ることになる。娘は小学生。「俺」は、「誘拐されたみたい」と笑う女の子と「俺」は脅迫状を作って遊ぶ。子供相手に、何をすればいいのかわからない「俺」だったが、亡父が遺した高価なスピーカーとアンプ「タンノイのエジンバラ」の音を褒められて、何だか誇らしい気分になったりする。
 大人と子供という壁はそのままに、「俺」と少女はバーモントカレーの話や、歌手の話など、年寄りにはぜったいにわからない単語を使ってギャップがあるなりの会話をする。一つひとつの言葉が温かく、まろやかさを伴っているのが長嶋有作品の持ち味である。

 たとえばこんなくだり。

「SPEEDの子たちは解散したあと、どうしてるの」と尋ねてみて、親戚の消息を訊いているような口調になったと思ったが、「ソロでやっている」なにも心配するなという調子で瀬奈は答えた。

 タンノイのエジンバラという名前に子供が反応する。言葉の響きに面白さを感じる。そんな、ちょっとした会話の積み重ねから温度を感じるのだ。

 ほかに、死が迫っている父の金庫を盗み出し、後妻の手から家屋敷を奪おうとする姉妹を描く、「キャッツ・アイ」っぽい? と登場人物自らが述べる「夜のあぐら」。猫が行方不明になって気落ちしている未婚の姉を連れて、妻とバルセロナを訪れた男の目で彼の地での出来事を淡々と綴る「バルセロナの印象」。ピアノ教師を辞めてパチンコ屋に勤めるもうすぐ三十歳になる秋子は、母の形見のグランドピアノの下で寝起きをしている……「三十歳」。

 いずれも、どこか人を食ったようなところがある短篇だが、どことなく茫洋とした「器」の大きさに安心して、読みすすめることができる。言葉一つ一つの面白さや、ディテールに登場する小道具が喚起する記憶から、読者は自分自身の物語を呼び起こされるだろう。

『猛スピードで母は』では佐野洋子の装画が内容を引き立てていたが、今回は高野文子が装画ならびに各短篇の扉にイラストを添えている。マンガに造詣が深く、「本」という形態を愛している著者らしい。すみずみまでサービスの行き届いた気持ちの良さを感じる。

 長嶋有は30歳。ぼく自身は34歳だから、ぎりぎり、この世界を共有できるジェネレーションかなと思う。出てくるモノがいちいちツボにはまる、という意味でだ。30前後プラスマイナス何歳まで、この小道具の喚起力が影響を及ぼすかは分からない。その点では、この小説集を世代がズレている老人や若者がどう読むのか、気になるところだ。
 ただし、バーモンドカレーやキャッツ・アイが呼び起こす記憶がなかったとしても、それらの言葉が持っている「言霊」のようなものが放つオーラだけは感じ取れるのではないかと思う。単なる風俗を取り出しているように見えて、その小道具が持っている言葉の面白さを巧みに使うワザに瞠目しないわけにはいかない。

 ともかく、この小説集に登場するさまざまなディテールを楽しむことができるという点で、長嶋有はぼくらの時代の作家である。そのことを素直に喜びたい。

*「anan」で井川遙が『猛スピードで母は』を愛読書として挙げていた。芥川賞を受賞した『猛スピードで母は』、というよりも、井川遙も愛読している『猛スピードで母は』のほうがなぜだかしっくりくるような気がする。まあ、どうでもいいことだけど。


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