【アルカリ】0641
02/09/03

『トム・ゴードンに恋した少女』
(スティーヴン・キング/池田 真紀子訳・新潮社・1600円+税)

 森へ迷い込んだ少女のノンストップ冒険談

 本書について、どんなお話か? と問われたら説明は一言で済む。「森に迷った9歳の女の子のサバイバル・ストーリー」。単純で、ありきたりな小説ではないかと想像してしまいそうになるが、さすがはスティーブン・キング。1ページ目から最終ページの最後の行に至まで、読者を夢中にする手練手管は見事である。やはりキングは天才だ。

 9歳の少女トリシアと、もうすぐ14歳になる兄のピートは両親が離婚したおかげで、ママと三人で、ボストン郊外からメイン州の田舎に引っ越してきた。難しい年頃のピートは、趣味がコンピュータという都会っ子で、田舎の子供たちと反りが合わず「コンピュワールド」なる屈辱的なあだ名で呼ばれ、不機嫌な毎日だ。その不満をママにぶつけるため、ピートとママは四六時中ケンカばかりだ。
 ママは引っ越して以来、子供たちに教育的な効果を与えるためか、週末は必ず二人を小旅行に連れていく。そして、その旅行はたいてい、親子ゲンカに費やされ、間に挟まれたトリシアはうんざりしている。

 この日の目的地はアパラチア自然遊歩道。広大な森の中をハイキングしようという計画だ。この日もピートとママはトリシアのことなどおかまいなしで、始終口論を続けながら遊歩道を歩いていた。
 途中でおしっこがしたくなったトリシアだが、そのことを言っても二人は聞く耳を持たない。トリシアは腹立ち半分で、二人に断らないまま道を外れておしっこをする。そして、おしっこをしてから、元の道に戻るのではなく、近道をしていこうと思いつく。その思いつきは「人生最悪の思いつき」だった。
 トリシアは歩けども歩けども遊歩道に戻れない。それどころか、どんどん森の深みにはまっていってしまう。トリシアの頭の中に冷たい声が聞こえてくる。「この森から永遠に出られないかもしれないよ」。

 トリシアはあこがれの大リーグ選手、トム・ゴードンの空想を心の支えにしながら、わずかばかりの知識と、たくましい生命力で森から生還しようと必死になる。どんぐりを食べたり、チェッカーベリーを食べたりして飢えを凌ぐ。身体に泥を塗って、蚊から身体を守る。しかし、彼女のことを見ている「あれ」の存在がつきまとい続けるのだった……。

 タイトルにもなっているトム・ゴードンは実在の大リーガーだ。1967年生まれ。86年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団し、96年にボストン・レッドソックスに移籍し、現在も現役で現在はシカゴ・カブスに所属している。アメコミのヒーローに引っかけた「フラッシュ」・ゴードンというニックネームは、その直球のすばらしいスピードと、落差の大きなカーブからきている。98年には最多セーブ賞のタイトルを獲っている。小説の舞台になっている98年6月はゴードンが華々しく活躍したシーズンの初夏にあたる。

 キングは、子供が持っている旺盛な生命力、自分の心を勇気づけてくれる豊かな想像力、そして、その隙間に入り込んでくる悪夢のような悪い想像力を巧みに描く。
 読者はトリシアが無事に森から抜け出すことを祈っているが、果たしてそれが無事に果たされるのか、最後までハラハラしながら見守らなくてはならない。物語は野球の試合を模して「1回」「2回」と進んでいくが、どんな野球の試合もそうであるように、どんな「奇跡」が試合途中に起こるか、誰も予想することは出来ないのである。

 森の中で、トリシアは就寝前に、残りの電池を気にしながら、ウォークマンのスイッチを入れ、ラジオでレッドソックスの試合を聞く。その時だけ、彼女は森の外とつながっていることを実感できるのだ。打者を討ち取った瞬間に、天を向けて指を指すというトム・ゴードンの姿は勝利の象徴なのだ。
 トリシアは、果たしてこのゲームに勝利することが出来るのか。読みはじめたら最後、少女の運命から目が離せない。


オンライン書店bk『トム・ゴードンに恋した少女』

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