『ウランバーナの森』
(奥田英朗・講談社文庫・571円+税)
軽井沢の森で死者たちと再会したジョン・レノン
10代の頃に出会った音楽は、生き方や思想信条に直結している。ぼくの場合はロックだった。なかでも決定的だったのはジョン・レノンである。
反体制、反戦、ラブ&ピースといった、彼のメッセージ性の強さもさることながら、常識外れを屁とも思わない底知れない自分への信頼がかっこよかった。これから社会に放り出されようとしている思春期後期の少年にとって、「世界」に対して超然しているジョンとヨーコがまぶしかったのである。
ゆえに、ぼくにとってジョン・レノンという人は一種のイコンであって、人間だという感じがあまりしない。そこがポールと違うところだ。ポールの作る曲も歌も好きだが、地上的というか、同じ人間という感じがする。しかし、ジョン・レノンという人はどこか人間離れした聖人のごとき存在感がある。
『最悪』で骨太な社会派ドラマを展開した奥田英朗のデビュー長篇『ウランバーナの森』を読みはじめて面食らった。主人公がジョン・レノンその人だからだ。しかも、音楽活動の表舞台から姿を消していた空白の時間、ヨーコとショーンと築いた家庭の「主夫」として暮らしていた夏が描かれている。
なんと大胆な。むろん、小説、フィクションであるからジョン・レノンというフルネームは出てこない。ヨーコはケイコ、ショーンはジュニアと改められている。しかし、主人公ジョンがジョン・レノンであることは明らかだ。そして、「文庫版へのあとがき」のなかで著者自身が認めている。
簡単にストーリーを紹介しよう。
軽井沢の別荘で夏を過ごしていたジョンに異変が起きる。いままでに体験したことがないくらい長い便秘だ。クスリを飲んでもいっこうに効果がなく、妻のケイコにすすめられて「アネモネ医院」という診療所に通院する。そのかえり、森の中でジョンは自分の人生に登場し、心のトゲになっていた「死者」たちと出会う……。
著者の奥田自身がジョン・レノンのファンであり、評伝、インタビューの類を読みあさったが、「主夫」時代についてはほとんどの書き手がごくあっさりとした描写しかしていないことに不満があったという。そこで奥田はフィクションによって、ジョンにとっての「人生の休暇」を再現しようとしたのである。結果、この世とあの世を行き来するジョン・レノンの姿がユーモラスに描かれている。
人生のある時期にさしかかって、過去の自分を振り返り、心的外傷(トラウマ)と向かい合う……そういう物語は数多い。幽霊との邂逅という設定に限っても、即座に山田太一の『異人たちとの夏』が思い浮かぶ。『ウランバーナの森』も季節は夏、お盆だ。死者との邂逅によって自分の人生をあらためて見つめ直す──東洋思想がジョン・レノンというキャラクターとマッチングしていることは言うまでもない。ジョンの前になら、死人の一人や二人現れてもおかしくない。そして、その経験を受け止めることが出来る柔軟さに富んだキャラクターだと思うからだ。
テーマがユニークであるだけに、読み手のイマジネーションが広がりすぎてしまい、「ここはもっとこうしてほしい」という異論があるかもしれない。ぼくも、まあ、そう思う部分もある。しかし、冷静になってみると、これくらいの軽さ、浅さがかえってこの小説の魅力なのだと思う。ジョン・レノンファンだけでなく、自分の過ちが心にトゲのようにささっていると感じる人に、優しい癒しを与えてくれるだろう。
オンライン書店bk『ウランバーナの森』
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