【アルカリ】0573
01/ 05/10(木)

『国道20号線』
(小林紀晴・河出書房新社・1600円+税)

 小林紀晴の新境地を示す奇妙な味の短編小説集

 『アジアン・ジャパニーズ』(情報センター出版局)シリーズほかで知られる小林紀晴の「初の本格小説」とオビにうたわれた連作小説集。

 『アジアン・ジャパニーズ』は好きな本で、以来、熱心な読者だったのだが、初々しいバックパッカーだった小林紀晴も、やがて写真家としてあるいは文章を書く人としてプロにならざるをえず、次々と刊行される「旅と人と写真と文章」本の数々には、そろそろもういいかな、という気分にさせられるところがあった。読者など勝手なもので、書き手・作り手に前作と同様のカタルシスをほしいくせに、新刊にはより以上のものを求めるものだ。

 ぼくは小林紀晴の文章はとても魅力的だと思っている。同じようなことを感じた編集者が多かったのだろう。『暗室』(情報センター出版局)という文章中心の本を出した後、昨年は魚南キリコのイラストレーションを表紙に使った連作小説『写真学生』(集英社)が出た。

 『アジアン・ジャパニーズ3』にがっかりして、もう小林紀晴の本が出ても手に取る必要はないかなと思っていたのだが、たまたま読み終えたばかりの人から貰って読んでみた。すると、これがなかなかいい。やはり小林紀晴は文章の人だと改めて思った。

 『写真学生』は、上京して写真学校に通う主人公を中心に、自身の故郷(長野県諏訪市)と東京の距離を繰り返し計ろうとする一種の上京物語だ。これは日本近代文学の代表的なモチーフの一つでもあり、小林紀晴がかなり本格的に小説に挑戦した錯誤の後が見受けられ、面白かった。

 さらに『国号20号線』は、虚構の世界を作り上げようと努力している。それがなかなか決まっている。

 サワコは、長野県諏訪市の出身で、父親が勤めていた精密機械工場が潰れたのを機に、通っていた映画の専門学校をやめた。映像制作会社で電話番をやっていると、ある日、サワコが学生時代に作った映画を上映したいとキュレーターから連絡が入る。その女性キュレーターはナイトウと名乗り、「あなたの映画に喪失感を感じる」と言い、不意に新宿の来歴を話し出す。

 上映の日、お寺の下にある上映会場(四谷のP3がモデルなんだろう)に16ミリフィルムを持っていったサワコは、その会場の家主であるお寺に通夜の予定が飛び込んできたと伝えられる。かといって、上映は中止ではなく、線香の匂いの中でサワコの映画の上映が始まる。

 こんなふうな、幽霊話のような、現実にあった話であるような、奇妙な味わいの物語だ。本書には全部で六つの短編小説が収められているが、登場人物は一部ダブっており、諏訪と新宿を結ぶ「国道20号線」のように、風景と登場人物を変えながら、小説が重なり合っていく。小林紀晴がこんなふうに本格的な小説を書くとは思ってもいなかったので、驚きつつ興奮した。

 小林紀晴は1968年長野県諏訪市生まれ。新聞社でカメラマンとして勤務後、旅に出、貧乏旅行者たちの旅行中のポートレートと、帰国後のポートレートを対比させながら、彼らの物語を書き綴った傑作ルポ『アジアン・ジャパニーズ』でデビューする。以後、順風満帆に著書を刊行しているが、『国道20号線』で新たな水源を掘り当てたのではないかと思う。

 小林紀晴の描く世界は、田舎と東京のギャップだ。そんなもの、今さらと思うかも知れないが『国道20号線』を読めば、この二つの世界が日本の現在であることを思い知らされる。しかし、東京に住んでいても、田舎に住んでいても、もう片方の世界は頭から追い出されている。あたかも存在していないかのように生きている。その溝をめぐって書かれたのがこの『国道20号線』だ。

 各短篇の末尾には小林紀晴の写真が掲載されている。彼はあくまでも写真家の目で現実を見、そこからイメジネーションを得て、小説を書いたようだ。だからこそ、それらの写真はここに掲載される必要があった。そう考えると、小林紀晴が歩いている場所は映像と文章の境界線なのかもしれないと思い、今までと違った目で彼の写真を見ることが出来るような気がしてきた。


オンライン書店bk1『国道20号線』

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