【アルカリ】0305
99/ 09/03(金)

『下下戦記』
(吉田司・文春文庫・515円+税)

 水俣で猛反発を受けた挑発的なノンフィクション

 公害ってコトバ、いまどき、あんまりリアリティないなあ、と思っているのはぼくだけだろうか。

「あいつは公害だよ!」みたいな役立たずのサラリーマンを評するときくらいしか聞かない死語じゃないだろうか。

 ダイオキシン問題ってあるけど、アレ、すごく曖昧な感じがする。明らかに公害だけど、実際の被害者、犠牲者が目の前に現れてこないと、公害として意識できない。

 つまり、ぼくたちは公害というコトバを失い、その存在を忘れ、いま、公害があったとしても、漠とした不安感しか感じられないのではなかろうか。

 本書はお母さんのお腹の中にいるときに水銀の毒が身体に回り、水俣病患者となってしまった若者たちの姿を描いたノンフィクションである。

 時代は、70年代初頭。本書が書かれたのも同時期で、発表されるやいなや、強烈な反応を水俣に引き起こす。

 それは「なぜ、こんなことを書く!」という反発だった。

 著者の吉田司は、以前【アルカリ】でも紹介した『ひめゆり忠臣蔵』などを後に書くことになるんだけど、当時は社会運動+記録映画という独特な活動を続けていた小川プロダクションから独立したばかり。水俣へは「書く」ために移り住んだんだけど、現地に住み込んでフィルムを回すという小川プロの薫陶よろしく、「若衆宿」という若者たちのたまり場をつくって胎児性水俣病の連中と付き合っていく。

 当時は水俣病について水銀を垂れ流していたチッソ側もその事実を認め、補償がはじまり、水俣病の第一世代たちはその闘いの矛を収めようとしていた時期だった。

 しかし、カネが転がり込み、大人たちが「奇病御殿」(水俣病は奇病と呼ばれ、その原因がチッソにあることが認められるまで長い年月が必要だった)と呼ばれる豪邸を建ててみても、その次世代である胎児性の患者たちにはただ虚しいものにしか写らない。

 生まれつき、身体が不自由であるということ、さらにその原因を作った連中(公害企業チッソ)が存続し、大人の患者たちがカネによる補償を受け入れていたそのころ、青年期を迎えていた水俣病患者たちのくやしさ、辛さは幾重にも屈折していた。

 たとえば、彼らは働きたい、と思う。しかし、身体が不自由で、ロクな仕事にはありつけないし、あったとしても長く続けられるほど安定した職場は滅多にない。そこで、チッソに自分たちを雇用しろ、と迫る。その要求を訴えるために、すわり込みをしようとする。

 しかし、そのすわり込みは大人たちの説得によって、また、若い患者たち自身の自信のなさから挫折していく。

 彼らは生きる尊厳を得るために闘いたかったけど、大人たちの政治的な活動にとってははねっかえりの行動だったし、自分たちが補償金で生かされているという現実をイヤというほどわかっている患者たち自身にも、大人たちと決別する勇気が生まれなかったのだ。

 吉田司は、この事件を一つのクライマックスとして運動の現実を描く。さらに、水俣という貧しい漁民の地域の中の差別も赤裸々に描いている。

 いわく、日本人の貧民は、在日朝鮮人を、在日朝鮮人は水俣病患者を差別するという貧乏人同士の差別のしあいっこ。下の下にある水俣病患者、それも、年若く、一生を水俣病から呪われて生きる者たちの闘い、それが下下戦記というタイトルに込められた意味である。

 水俣病認定を受ければ補償金がもらえる、となると、それまで水俣病を奇病とさげすんできた連中が突如認定を得ようと届け出を出したり、補償金で豪勢な暮らしをする患者家族がいたり、その患者家族たちを成金呼ばわりする人たちがいたりと、教科書には絶対に書かれていない水俣の現実が描かれる。

 この書が水俣で猛反発を食ったのもよくわかる。運動にマイナスになる「反動」呼ばわりされたとしても仕方ないだろう。

 しかし、ここに描かれているのは週刊誌がアンチのスタンスで暴き立てるスキャンダルのごときものではない。天下の公害被害を受けた水俣という場所もやはり日本の一地方、差別もあり、嫉妬もあり、理不尽な現実が渦巻いているというあたりまえのことを、むしろ、人間への愛情を持って書いた本だと思う。

 事実、水俣病というのは、日本が高度経済成長する過程で、いかに貧乏人を足げにしてきたかの見本のようなものだ。

 今のぼくたちの感覚からすれば、水銀の入った魚は「買ってはいけない」で終わりだ。実際に、奇病の原因が魚にあり、その魚が水銀を食っているらしいことは広く知られていたのだという。

 では、なぜ水俣の人たちはその魚を食ったのか。それは貧しかったからである。

 ほかに食べるものがなく、あきらかにヘンな魚でもすぐ目の前にある食料にはかわりがなかった。「買ってはいけない」から買わないようにしようというレベルとはずいぶん違う。彼らに選択肢はなかったのだ。

 では、そうして生まれた水俣病に罹った患者たちは、その運命にどう立ち向かっていけばいいのか。それが本書を貫く主題である。

 公害の責はもちろん、当事者である企業や、行政にあるだろうけど、広くは、その社会が生み出した歪みであり、その犠牲者は時代の申し子であるはずだ。

 しかし、新聞報道に代表される社会派ジャーナリズムの視点では、その運命を背負った一人一人の悲しみや辛さの複雑怪奇さがすっぽりと抜け落ちてしまう。だから、吉田司は偽悪的とも言える暴露の仕方で、水俣病の若者たちの悪戦苦闘を赤裸々に描いたのだと思う。個々人が、運命に逆らう勇気を持って、社会に立ち向かえ、とエールを送るために。

 本書の救いは、若者たちが性の悩みや、結婚への希望とその挫折を味わいながら、少しづづ成長していく様子が描かれていくことである。青春ノンフィクションとしての瑞々しさが魅力である。

 水俣病はすっかり過去のものになってしまったし、現在進行中の公害は環境破壊という雲をつかむようなお話に昇華されてしまっている。しかし、人間は実際に自分の身体や家族の身体が蝕まれることによってしか、その理不尽を味わえないものなのだろうか。だとすると、人間は、また同じようなことを繰り返すことになる。そうであってはならないと思うが。

*本稿は白水社版をもとに書きました。


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