『別冊宝島461 「救い」の正体』
(宝島社・933円+税)
カルト集団のかたちと日本社会の病巣
中央線が止まって、御茶ノ水から吉祥寺まで2時間かかった。駅に着いたの、夜中の二時ですよ。おかげで本書を読了できた。動かない中央線のなかではみんなぐっすり眠っていて、ちょっと幻想的だった。
宗教とかカルトは別冊宝島の得意な企画。『となりの創価学会』なんか面白かった。最近の別冊宝島はちょっと薄味になってきているとは思うけど、本書は久々に得意分野でがんばってるって感じ。でも、昔と比べれば歯切れの悪さが目立つのが気になるけど。
本書がテーマとしてのは「カルト」である。
これは、宗教に限らず、自己啓発セミナーやヤマギシ会のような、熱狂的な集団を指す言葉だ。1980年代ごろからカルトの活動は活発化してきた。
学生運動の終焉が、若者たちのさまよえる魂を生み出し、反物質的な世界を夢見る純粋な理想を食い物にしたのがカルトだと思う。
だから、マジメな人ほどハマりやすいっていうわけ。
ぼく自身はとくに信仰は持っていないけど宗教的な考え方に興味がないわけではない。ただし、どうもカルトみたいな熱狂的なやつが苦手で、まア、ようするにアマノジャクなんだろうけど。自己と他者の区別が付かなくなるような一体感ってやつがどうにも苦手なのだ。
ぼくが大学生の頃には原理研が勢いを持っていて、キャンパスに出没していたけれど、通っていた大学が昔ながらの学生運動の拠点校だったので新勢力である原理にハマるやつは少なかった。むしろ革マルとか民青などの政治系の関連組織に引っかかるヤツの方が目立ったし、あとはもっぱら自己啓発セミナー。
ある日、突然ポジティブな人間に生まれ変わって、勧誘攻撃を仕掛けてくる。でも、身近にはそういう人は幸か不幸かいなかった。
でも、息せききって、何かを強く求めているようなあの人たちの表情は見ていて面白かったし、なぜハマるのか? ということについてはすごく興味があった。でも、大学生の頃はほかにいろいろと忙しかったので、そっち方面で潜入しているヒマがなかったのだ。残念(笑)。いま考えてみれば原理研でビデオくらい見せてもらえばよかった。
本書に取り上げられているカルトの中でとりわけ目を引くのは「ものみの塔」ことエホバの証人である。例の輸血を認めない信者の集まりだが、ふだん目にする彼らは子供の手を引いた敬けんな伝道師という面影で、危険な連中には見えない。しかし、本書によればエホバの証人の信仰に家族が入ったことで家庭が崩壊し、子供たちは虐待を受けるというかなりとんでもない集団らしい。
そうかあ。見た目だけではわからないもんだ。
また、統一教会って、本書を読む限り、アレ宗教団体じゃないっすよ。完全にマルチ商法の親玉。経済カルトだ。でも、あそこまで集金機能に徹したカルトを育てた文鮮明ってすごい、と逆に感心してしまった。
というのは、基本的にカルトは熱狂に惹かれて集まる人がいるから成り立つわけで、親のとばっちりで集団に入れられた子供たち以外は、それぞれ何らかの理由があってそのカルトに参加している。そして、そのエネルギーを受け止め、組織立て、金儲けを行うのがその頂点にいる連中だということになる。
そして、このカルト集団は、たぶん、カネの流れを追うことで、そのバケの皮が剥がれるだろう。不明瞭なカネの流れはやがてそのカルト集団の幹部のところに行き着く。そこから先は、闇だ。
しかし、カルトに参加する人たちには、その闇こそが「世界」である。ブラックボックスがあるから神秘的で魅力的だ。また、自分の思考を停止し、熱狂に身を投じるために失うモノ(カネ)が絶対に必要なのだ、と思う。自己啓発セミナーがバカ高いセミナー料を取るのはその典型だ。
本書の指摘でとくに重要なのはカルト集団に入る人たちの家庭に、あらかじめ問題の種があり、家族がカルトに入ることでその問題が顕在化するという指摘だ。家族制度の目に見えない静かな崩壊が、カルトに熱狂する人たちを生み出す母体になっているようなのである。
このあたりの問題意識は桐野夏生の『柔らかな頬』や天童荒太の『家族狩り』に描かれた家族の肖像にも反映されている。カルトの問題には、表面上に現れてこない大きな根っこが隠れていそうだ。
カルトにハマった人たちをこちら側に引き戻そうとする反カルトのなかにもカルト性がある、と指摘する本書のスタンスは、これまでのカルトに対する直感的な恐怖を冷静に分析する知性を感じる。
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