【アルカリ】0277号
99/07/27(火)

『ひめゆり忠臣蔵』
(吉田司・太田出版・1748円+税)

 オキナワ神話をはぎとる、根性の悪さ100%の傑作ルポ

 夏です! オキナワです!(行ったことないけど)

 つーことで、オキナワ本を読んでみました。

 本当にオキナワのことを好きだったり、興味を持っていたり、気になっているなら、この本は必読だ。ここに書かれていることの、どこまでを信じて、どこまでに共感・賛同できるかは別として、ここには、ナイーブなオキナワ愛を心胆寒からしめるおそるべき洞察が書かれている。

 つーか、おれ、別にオキナワ行ったことないし、愛情も特に持ってない。高円寺「抱瓶」で食うオキナワ料理は旨いと思うけど、店員の態度にはちょ〜ムカつくんだよねー、という通りすがりのヤマトンチュー。だけど、どうも、オキナワって聞くとお尻がムズムズするんだよねえ。

 その、座り心地の悪さの謎を明解に解き明かしてくれたのが本書で、オキナワの人にとっては大迷惑、実際、本書が刊行されてオキナワ世論は大紛糾したというイワクつきのシロモノだ。

 本書を大ざっぱに説明すると、オキナワにまつわる「神話」の解体を実に鮮やかに行って見せた本だといえる。

 つまり、オキナワの戦後のシンボルだといえるひめゆりの塔。あの、ひめゆりの乙女たちは、戦後、なぜか反戦のシンボルになり、「乙女たちの平和への思いを後の世に引き継ぐために」みたいな文脈で語られるようになった。

 でも、この話って、なんかヘンなんですよ。

 オキナワだけの話じゃなくて、戦後の日本の平和教育全般に言えることで、子ども心にも「なーんかヘンだナー」と思った人は多いと思うんだけど、実のところ、戦争で無惨に死んだ人って、ほんとに平和なんか祈って死んだわけ〜??

 そう、オキナワのひめゆりの乙女たちというのはオキナワでも超優秀な連中を集めた「女東大」みたいなエリート校で、当時のエリート=バリバリの軍国少女たちだったのである。だから、フツーの学校の連中よりよりたくさんお国(日本)のために死んでる。

 戦前は軍国エリート、戦後は反戦平和の象徴、吉田司いわく「ヤヌス(二面神)のごとき」存在が彼女たちなのである。

 ここまでなら、まあ、戦後日本の反戦教育にありがちなお話しの一つということでカタがつく。オキナワの場合、さらにやっかいなのは、彼女たちひめゆりの乙女たちが「神」と仰いだ天皇ってのが、そもそもオキナワを支配した権力者だという軽くない現実だ。もともと、琉球という小国家があったにもかかわらず、我先にと日本化していったという「遅れた島」だったから、天皇制への強烈な帰依意識に貫かれ、しかし、当の天皇制からはほとんど見殺しに近い目にあったという悲劇。このとんでもない皮肉がオキナワという地を象徴している。

 この二律背反は戦後、アメリカか日本かという支配者の二者択一に受け継がれ、最終的に日本に組み込まれる。そのこと自体はしょうがないことだけど、以降、オキナワは日本政府から援助金を引き出し、第二次大戦では戦争に巻き込まれた「被害者」であり、それ以前にも日本に辛酸をなめさせられたという過去を持ちつつ、かつて自由な海洋国家としてアイディンティティを持っていた古き琉球の華やかな思い出を胸に生き延びてきた。

 その結果が、相変わらず低い所得と、日本政府の援助とアメリカの基地に依存した経済、本土資本による観光化と自然破壊だ。一方で音楽や文化的な活動では注目を集めているが、それらに「注目」し「消費」しているのは移り気なヤマトンチューの若者たちだ。

 この状況ってのは、つまり、オキナワがいつもいつも自分たちが置かれている状況に対して被害者意識まるだしで、アメリカや日本が作ってきた物語に無批判にまきこまれがちだから生まれたんだ、というのが吉田司の主張である、たぶん。

 そして、その被害者意識でできあがった南の島の楽園に本土の若者たちが漂流し、流れ着いて生活をしていくのは実に自然なことだと書いている。ようするに、本土の若者たちのなかにオキナワ的なモノが育って、オキナワを求めているのだ、というわけだ。そして、そのオキナワ的なものの中味は・・・これは別に吉田司が言ってるわけじゃなくて、ぼくが思っていることだけど、幻想だ。

 つまりは、ここではないどこか。

 そして、その夢見がちなロマンチストのゆく果てがどのように皮肉で悲惨かまで、本書にはご丁寧に書いてある。薩摩藩のとんでもなく重い人頭税をのがれるために、パイ・ハティ・ローマを目指した連中は、台湾に住み着いたという。ところが、太平洋戦争中に、その連中を土着した首狩り族扱いして殺戮したのは、実は同郷のオキナワ「神民」だったという皮肉。ここではないどこか、は天国どころか黄泉の国っていうオチなんだろうか。

 で、なぜオキナワか。

 オキナワってのは、いつも天皇制日本のトカゲのシッポ。いっつもひどいめにあってる。で、ひどい目に遭わせば遭わせるほど「この人の気持ちがわかるのはあたししかいない」みたいな気持ちでくっついてくる暴力亭主とその妻みたいな関係だ、と吉田司は指摘する。その共依存的体質たるや、読んでいて、まさに涙が出るほどだ。そして、本土もまたカネさえ出しときゃいーだろってことで、ま、ホントのところ、どうでもいいんだよね、たぶん。

 とおいうわけで、一読、いや〜な気持ちにさせてくれること請け合いの本書だが、実に面白い。あれやこれや、考え考え読む楽しみのある本である。そして、オキナワには行ったことがないけれど、いつか行くときには、この本の中味がどれくらい、それらしいいか、を見てきたいと思っている。

 そして、オキナワの皮肉で哀しい物語は、じつは、天皇制ジャパンの共同体幻想に巻き込まれている私たち一人一人の極端に波瀾万丈なストーリーなのだと考えてみれば、この本が持っている異様なポテンシャルに気付かされるはずだ。そして、テーマは硬派だが、文体は戯作的で、笑いが止まらなくなるような部分もあった。その、スタンスが面白い。実にユニークな傑作ルポだ。

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