【アルカリ】0243号
99/06/8(火)

『柔らかな頬』
(桐野夏生・講談社 1800円+税)

 幼女失踪事件が生んだ漆黒の闇を描く

 恐るべき傑作。

 とくに文言を必要とすることなく、ただ「読んでくれ」と言いたい傑作だ。

 夫と製版所を経営しているカスミは、大手広告代理店のグラフィック・デザイナー石山と不倫関係にある。石山は、北海道の泉郷に別荘を買い、その別荘にカスミの家族を招く。

 カスミは、石山に告げていなかったが、実は、その別荘の近くの寒村を家出し、東京で暮らしてきた女だ。カスミは十数年ぶりに北海道の地を踏んだ。

 両家族が揃った別荘で、大胆な情事にふけったカスミと石山。その朝、長女の有香が姿を消す。

 必死の捜索も功を奏さず、有香は見つからない。不信人物の影もないまま、捜索は打ち切られてしまう。

 たった一人、カスミだけが有香の居場所を探すという執念に駆られて北海道を再訪する。

 桐野夏生の小説を読んだことのある人なら、主人公カスミのイメージが湧くだろう。自分の人生をたった一人で生き抜くことの出来る、強く、しかし孤独の影がある女だ。
 その女が、ある日突然、理由もわからないままに最愛の存在を失う。時とともに事件を風化していく中で、たった一人、妄執に囚われて娘の姿を追い求める。
 その、壮絶な世界を見事に描いたのがこの小説だ。まず、読者はその迫力あ
る描写に、圧倒されるだろう。

 そして、カスミのパートナーとなるのが、胃ガンを患って余命幾ばくもない刑事内海。道警一課のエリート刑事だった内海は34歳の若さでガンには侵され、初めて野心を満足させるためではなく事件に向かい合う。テレビの失踪人探しのなかで見たカスミの姿に興味を覚えて、ボランティアで有香の行方を探すことを決める。

 方や、最愛の娘を失って人生の時間を止めてしまった女。
 方や、すでに人生の最後の時まで秒読みがはじまった男。
 二人の出会いは、お互いの人生の意味を問い直す旅への出立へとつながっていく。

 この小説をミステリーとして読むのはやめた方がいい。

 それよりも、むしろ、一つの事件が起こることで、関わった人間の人生がどう変わるのか。事件によって、その人の人生の本質が、そこに現れてくる。ある意味でとても残酷な物語だ。

 そして、桐野夏生の筆致はますます冴えて、これまでの作品で欠点と感じた部分が、見事に美点に変わっている。著者のフェミニズム的な女性観が前面に出すぎることや、物語の細部へのこだわりの淡泊さ、ミステリー風に演出しようとする努力である。
 それは、秀作『OUT』ですら、完全に克服されていたとは思えなかった。しかし、本作で、それらの欠点は見事に個性に結実した。作家、桐野夏生の成熟を示す傑作となった。

 余談だが、まだ今ほど売れっ子作家になる前の桐野夏生さんにたまたまお会いして食事をいっしょにする機会があった。乱歩賞を受賞するまでの下積みを語った後で、彼女はこんなふうに言っていた。

「でもね。やっぱり、いま、こうして小説を書いていると、これって天職だな
あと思うのよねえ」。

 たしかに、あなたの小説には気品があるし、志の高さを感じます、とその時のぼくが言ったかどうかは覚えていないが、彼女の佇まいの爽やかさに、作家ってこういう人なのか、と他愛ない感想を持ったことを覚えている。

 以後、一作ごとに成熟を見せた桐野夏生の小説は、この『柔らかな頬』で、静かな完成を見た。これから後、彼女がどんな小説を書くのか。これからも期待して待ちたい。

オンライン書店bk『柔らかな頬』

Copyright (C) 1999-2004 Takazawa Kenji.All right reserved.

top aboutweblogbookcinemamail

動画