『蛇鏡』
(坂東眞砂子・文春文庫・476円+税)
蛇と女と鏡と遺跡
坂東眞砂子の直木賞受賞作『山姥』(上・下)は新鮮な驚きを感じさせる時代小説の秀作だった。その坂東眞砂子は数年前までホラー小説の旗手のひとりだった。先日映画化された『死国』がデビュー作である。そして、その後『狗神』、本書『蛇鏡』、そして『蟲』と続き、ホラー時代を終えるのだそうだ(解説より)。
読者を恐がらせるあの手この手を弄するホラー小説という、きわめて現象的な側面にのみに注目したとして、坂東眞砂子がいわゆるホラーを書いたのかどうかはちょっと疑問だ。むしろ、日本の伝統的ロマンとしての伝奇小説という呼び方がふさわしいと思う。
東京で働いているコンピュータ・プログラマーの玲は、婚約者の広樹を連れて奈良の郷里に戻ってきた。家の古い蔵を整理していると、8年前に自殺した姉の足下に転がっていたという古い鏡を発見する。蛇の模様が描かれた鏡を手にした玲は、自分が結婚する相手が本当に広樹でいいのか迷い始める。同じ頃、玲の初恋の相手田辺が目の前に現れる。大学院で考古学を学ぶ彼は、蛇神を信仰していたと思われる古代の民族の遺跡を発掘していた……。
古代史に材を取っているが、作者が描きたかったのは、むしろ女が男に対して持つ愛と憎しみの深い陰影である。その陰の部分に蛇神が忍び込む。恐怖は、いつも人の心の一番弱い部分に立ち現れるのである。その点で、たしかにホラー小説というジャンルに含まれる資格はあるだろう。
ところで、読者のF田さんが、最近【アルカリ】が取り上げている、いわゆ
るホラー小説について、こんな意見を寄せてくれた。
この間、貴志祐介と森田芳光の対談を読んだんだけど、そのなかで「SFや純文学に力が無くなったのは、それらが『SF(純文学)とは何か?』と自問してしまったからで、ホラーはまだゴッタ煮の力強さがある」というような事を言っていたけど、要は、「この作品はホラー、これはホラーじゃない、ということをするのは、生まれて間もないホラー小説というジャンルにとってマイナス」ってことらしい。
エンターテインメントは、ジャンルの境界線にあるものが面白いとぼくも思う。ジャンルに収まりきっている小説はつまらない。例えば西村京太郎のミステリーのように。どこのジャンルでもないし、それぞれのジャンルの要素が含まれているというような小説の方がやはり面白い。
ただし、ジャンル分けした方が、読者にセールスポイントが明確になるというところはあるのだが。結局は、紋切り型の方がわかりやすいということか。しかし、ある程度の小説読みなら、誰しもそのレッテルを裏切る小説の出現を期待してしまうんじゃないだろうか。
現代人にとって、永遠に解きえないともいえる、古代の謎と女の情念を絡めるという小説の作り方は実にオーソドックス。このまっとうな小説作りが、のちに傑作『山姥』を生むことになる。『山姥』もまた、ジャンル分けされることを拒否する小説であった。
オンライン書店bk『蛇鏡』
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